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THINK ABOUT SOMETHING.

『我らかくあるべし』から『我かくあるべし』へ

普遍的終末の母子数=数値の部分は後付けである。例えば芸術家にしろ音楽家にしろ、その普遍的終末というのは類型論を最後の砦とした征服の最深部のことであり、その征服行為が普遍的に可能である場合、それが小刻みに数値を変動させ、類型論的征服=拡張終末は数値をそこから1/1化する。


即ち何々の普遍的終末という呼び方をした時、それは何々の最小母子数を暗に指定してるのであって、小刻みに変動する征服可能者の最小値がそれなのである。即ち拡張終末以外に伸び代のあり得ない深淵であり、その時点で間違いなくオリンピック的だが、しかし遍く征服可能なものの数値が何故変わるのか。


これは弁護士は誰でもなれるのに、現実的には何故淘汰されるのかというテーゼに近く、理論的に可能であることと現実的に可能であることは違うのだ。例えば人間の指の動きをサンプリングして、その動きの組み合わせで楽譜を形成した場合、それは誰にでも演奏可能という理論は、全く現実性がない訳だ。


しかし、しかしだ。理論的に可能であることの彼岸へ向かわずしてどうするというのか。現実に明日の記録があるものか。理論以外に何の勝利があるものか。理論的深淵=普遍的終末で類型論的拡張を行えばそれはオリンピック的行為でも、それ未満での同行為はアマチュア的妥協でしかないのではないのか。


従って母子数を削る時安易に拡張終末に頼らず、原則として普遍的なまま降りていき、大なるものではなくより小なるもの、理想的には最小なるものの普遍的終末でそれをやるべきなのだ。そして理論的深淵とはケースバイケースを普遍的に絞り込み、その他一切を否定する理性の比喩のことなのだ。


即ち『べき』ではダメなのだ。『べし』なのだ。暫定的なものから確定的なものへ、それも理論的に、理性的に、あるいは征服的に。固有性は征服されるべくあるのであって泳がされるべくあるのではないのであり、即ち試練は自分自身にあるのであって、それを迂回しようとした時拡張終末への妥協が始まる。


自分自身の中にある理性的な一本筋は万人に通じざるを得ないが、その深淵を諦めた人間は拡張終末に逃げる可能性が高く、それは暫定の位を1/1化する妥協行為だ。詰まる所僕達は理論的にしか極みに達することはできず、拡張終末はそれ以降の『聖なる僅差』としてのみ真価がある。


僕は長年三島由紀夫の『オリンピック的勝利』の意味が分からなかったけど、これは要するに拡張終末の真価――即ち聖なるケースバイケース――を指し示しているのだと思う。それは他の誰よりも固有であり、自由であり、その徹底的に絞られた虚無的な領域でこそ自我は輝くのである。


理論的深淵――それは拡張終末(ケースバイケース)の殺し屋でありながらも、最後はそれによって輝かされるという、対極の性質を併せ持つ。理論的な正しさが全てではないにせよ、『我らかくあるべし(one)』の深淵から『我かくあるべし(ones)』への飛翔の為にはそれが不可欠なのだ。