読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

impossible is nothing

僕的用語における虚無というのは『自由意志(無限)の根拠』ないしは『必然性の究極の隣人』なので、『可能の限り』というのはほぼ『虚無の限り』という意味になる。また前者の虚無はアプリオリに存在すると思っているが、後者の虚無は最高峰の拡張終末でしかあり得ない。


産前から受け継いた虚無が生的なものならば、この虚無は死的なもので、彼岸としての1/1(可能の限り)があって、その先に0/0(虚無の限り)があって、この中間点で戯れることが『アート』なのだ。そして生的なものとしての虚無はそれ自体では『全人口/全人口』のランダムウォークでしかない。


独創性はそれ自体ではこのランダムウォーク=盲目の無限に相当し、普遍性はそれらを目的論的に征服した帰結としてのディレクション=王者の無限に相当する。その視座のみが独創性を完全化させるのであって、その究極から脱走することは決して独創性の真意ではないのである。


不完全な独創性から完全な独創性へ――それが普遍性への大いなる道のりであり、下位なるものはより上位なるもの、ひいては最上位なるものへと含有されていく。それは関係したもの全ての(暗黙の)了解を踏襲した王位であり、そこから放たれる自由はその王国の脚本なのだ。


この時諸々の独創性は必然性の統治下に置かれ、俯瞰する限りにおいて革命の隙を与えない。即ち独創性の横運動はあり得ても、縦運動はルサンチマンの域を出ず、その無言の圧力がなければ王者の自由は成立しない。革命は些細なことから起きるのだとしても、ルサンチマンの域ではそれは成立しないのだ。


要するに異議申し立てとしての有効性がなく、押し殺さざるを得ないダダに過ぎず、本質的な異議は同格の普遍性からでしかあり得ない。例えば三島vsランボーとかだ。もちろん確率的な偏差はあるから、下位の人間でも最大値を取れれば上位を負かすことはあるんだけど、それも知れてる訳だ。


革命は些細なことから起きる、というのは僕は凄く良く分かるんだけど、それは予測不可能なものという意味ではなく、むしろ予測可能なものからのカウンターとして起きるのであって、ボクシングのリングに素人が上がっても同じことはできない。素人はプロにとって予測不可能な動きは取るけどね。


そうなるとルサンチマンランダムウォークの定義は被ってきて、下位的なものほどランダムウォークの性質(予測不可能性)を持っているが、それはダダイスティックなルサンチマンに過ぎない。ゆえに普遍者には容易く試合運びを持っていかれるし、カウンターなんて絶対に成立する訳がない。


翻って対等者の全てが予測可能かというと厳密には違うが、可能性が絞られているのは間違いなく、極端な言い方をすれば間違ってもリングの上で蹴りを入れられることはないだろう。しかし素人は全ての可能性を瞬間に収めるから、時系列的な可能性――上述した中間点への飛翔――は絶対に成立しないのだ。


素人の可能性の広さよりもプロの可能性の狭さの方が脅威であるという逆説は、この時系列的な確率の収束論によって逆説ではなくなる。瞬間瞬間の脅威――プロの可能性の狭さとの偶々の重複――はあり得ても、一連としての脅威には絶対にならないし、重複しない時間は全て『無効な動き』だと言っていい。


そう考えると『あり得ない選択肢』というのは独創性に非ず、『捨てられた選択肢』に過ぎないのだ。それは簡単にゼロ(無影響)に抑えられるが、『分かり切った選択肢』の累積は次第にゼロに抑えられなくなり、相手の動揺を誘うようになるが、カウンターとはその時系列的特異点のことを意味するのである。


即ち分かり切ったものの時系列的累積が均衡を破壊し、状況が急転することの一例がカウンターなのだ。それは分からなくなったということではなく、揺さぶりによって行動を特定域に持っていかれ、それを突かれたということだ。可能性へのファジーさがなくなり、0か1か的になったということなのだ。


可能性の全てに対応できないのは当然だ。選択肢が絞られているとは言え、決して一つではないのだから。しかし可能性としては読んでいても、別の可能性を優先したがゆえの0というオチが、例えばカウンターだ。それは開戦直後のファジーさの対極にあるもので、そこにこそクライマックスが宿り得る訳だ。


そういう諸々の手続きができる為には、逆説的に可能性は絞られてなければならないし、純粋な意味での無限に同じことはできず、ひいては何もできずに終わってしまうのがオチ。盲目の無限と王者の無限。『impossible is nothing』と言えるのは、後者でしかあり得ないのである。


絞られた可能性はクライマックスの呼び水だが、しかしそれは時系列的なものとしてそうあるのだ。必然性の隣人である虚無を呼び覚ますものとしての連続性であり、その勝利はあらゆるベクトルに放たれているが、ランダムウォークにはそういう要素が全くない。それが自由という言葉の全てを表してるよ。


同じ1/1でも、目的論的究極としての虚無(0/0)に如何に肉薄しているか。それこそがオリンピックの美しさだし、1/1であることは最早只の前提になっている。ボクシングは対戦だから違うと思うかもしれないけど、あれも陸上のような連続的帰結としての美(虚無の限り)と捉えられるのである。