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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

ゼルダと最後の審判

ミスチルの歌詞じゃないけど、気がつけばそこにあるものなのか、気がつけば何も残らないのか、それこそが美の実態で、前者が『静かなるもの』だとすれば、後者は『虚ろなるもの』であり、美は本来前者の側にある。即ち、美とは飾らなくてもそれ自体で存在する静かなるものなのだ。

 

言い換えれば『飾られたゆえに美なのではなく、美があるゆえに飾られたのだ』ということで、虚ろかどうかはともかく、ダリはその飾り側を美とした上で、それを総柄にしているような印象がある。『飾りしもの』と『飾られしもの』との関係で紐付く何ものかがなく、ただ、飾っているだけというイメージ。

 

少し話が飛ぶが、僕は単純系と複雑系なら、最終的な境地においては、後者が勝つという信仰を持っている。シンプルイズベストは確かに強いし、あらゆるものを纏った出鱈目な状態から何を残せるかという思想は正しいんだけど、最後の境地での答はそうとも限らないし、僕はそれを『最終論』と呼んでいる。

 

最終論とは理想論に非ず、最終的な境地で見出される究極の現実論であり、最後の審判が最後に肯定したものである。この場合の『認めしもの』とは神であり、『認められしもの』とは美だが、そう考えると『飾りしもの』である芸術家は神の成り代わりであり、彼により『飾られしもの』こそがアートなのだ。

 

神の目線を伴った動きがアートであり、覚束無いものなき極みにそれがあるのだとすれば、本来の芸術家とは神の近似でしかあり得ないし、そこには精神のオリンピックが存在する。そして僕が昨日つぶやいた派手さとは即ち、不必要な動きや未熟な動きといった『覚束無いもの』のことを指す訳だ。

 

この場合におけるシンプルイズベスト=覚束無いものなき極みは、前述のそれとは違って絶対覆らない正論だと思う。この視点で考えてみるとYouTubeの以下の動画は『静かなる美』だし、決して派手でも何でもない。本当にクールだ。

http://www.youtube.com/watch?v=5_v7QrIW0zY

 

任天堂の幼稚さはゼルダという最終的な境地において、神に最高の肯定を受ける。任天堂を批判するのは割と簡単だし、そんな言論はありふれてると思うが、彼等はゼルダの問題をどう扱っているのか。即ち彼等の思想ばかりが横行していれば、あの金字塔は生まれていなかったという可能性についてだ。

 

昨日と逆のことを言うけど、もちろんその一点を取って肯定を全体化することはできない。しかし僕はゼルダに何かこう、ゲームの究極の形式を感じるというか、それを覆い隠してしまうことにもの凄い冒涜を感じるのだ。即ち僕には最後の審判のその後の審判を想定することができないのだ。

 

最後の審判のその後の審判というのは、最後の審判そのものにエラーがなければ、当然同じ審判が繰り返されるだけだ。仮にエラーがあればそれは最後の審判ではなくなり、フィックスされた審判がより最後の審判に近づくというだけのことで、しかし僕はそこでより上位の審判を想定することができないのだ。

 

それはゼルダ以上のものを孕んだものが彼等の中に居るという『次なる最後の審判』だ。現時点では任天堂がその頂点に居るというのが僕のイメージだけど、時代は変わるし、世代も変わる訳だから、今後どう転ぶかなんて誰にも分からないということで今日は締め括るとするかな。