BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

最後という言葉は幻想だ

音楽制作の一手にも、小説執筆の一手にも、果たして神の一手は存在するのか。仮に歴史的終末における最高傑作への一手一手がそれだとするならば、そこには多分に『本質の見透かし』が要求される筈で、トライアンドエラーの無限分のボリュームがその一手には集約されているべきだ。

 

僕には作曲の才能なんてこれっぽっちもないし、遊びで試してみたことがある程度だが、心地よいメロディーというのはデジャヴを伴って想像の先を満たしてしまうから、そこで迂回するということをよくやった。そしてほとんどの場合、迂回したメロディーはそのデジャヴを下回るということを痛感した。

 

僕が思うに、この迂回行為は見透かしの真逆行為で、最も低級なトライアンドエラーだと思うのだ。本質=神があって、本質的なもの=デジャヴがあって、この溝を埋めるどころかそこから逃げているからであり、心地よいデジャヴを超えたところに神があるにも関わらず、それに背を向けてしまっている訳だ。

 

それだったら久石譲の風のとおり道に対する坂本龍一のUndercooledのように、デジャヴから逃げずに堂々と別の王道を模索する方が潔いというものだ。これは何もデジャヴの発展上位を目指せということではなく、下手に出自をロンダリングする方があざとく、見る人が見れば分かるということだ。

 

最後の審判による最後の肯定が、有限の代表者ではなく、無限の代表者に授与されるものであるならば、最後の審判とは永遠の幻想であり、何故なら確定してしまった時点でそれは有限になってしまうからだ。即ち無限と無限的なものの溝を埋めるオリンピックは永遠に続き、記録も永遠に更新されていくのだ。

 

僕達にできることは無限の近似を一手に集約させ、代表させることであり、それがクリエイションの前提且つそれが妥当であるならば、あらゆる模倣はやがて創造――聖なる結果論――へと昇華される。即ち無限の彼岸において創造と模倣は最早区別されず、神の一つの相でしかなくなるのだ。

 

神を表す限りにおいて模倣は創造であり、表さない限りにおいて模倣は模倣であり、創造と区別される。そしてピカソが言う『奪う』とはこの区別をなくすことを意味するのだと思われ、その彼岸には『覚束無いものなき極み』を体現する天才達の祝祭があり、誰もが悠々と最後の審判を待ち望んでいる。

 

芸術行為と最後の審判は相即し、覚束無いものなき『極み』と無限の聖なる『果て』は紐付いている。即ち本来の芸術家は同時に『最後の審判者のミミック』を兼ね、『彼による肯定の確信』に満ちたものが芸術であり、そのミミックが実態に近ければ近いほどそれと紐付くアートのクオリティーも保証される。

 

但し最後の審判の最たる比喩が最高のアートだとしても、彼のミミックを完璧に為したらばそれが創造できるということではない。時間が無限にあればそれはイコールで繋がるが、実際はそうではないし、しかしそのミミックが完璧ないしはその近似である限り、『覚束無いものなき極み』は徐々に形造られる。

 

最後の審判と同等の審美眼を持つことがゼルダのような金字塔を築き、それは徐々に形造られた極みの対置表現に他ならない。どこを志向してもそれに近いものは確保されると思うが、本当の本当に最終的なところで言えば優劣は初めから決まっているだろうし、慎重且つ大胆に本質を辿らねばならないのだ。

 

作曲にしても拾う旋律があれば捨てる旋律もある訳で、誰かが捨てた旋律の中に神の一手が孕んでいることもあれば、誰かが拾った旋律がその真逆の一手に過ぎないこともあるだろう。何が言いたいかというと、優れているものがより優れているものの捨象に過ぎないということは起こり得るのだ。

 

逆の見方をすれば、より優れているものが優れているものの捨象を抽象化しているのだと言うこともできる。そうやって最後に残った結晶も実は最初から決着を有しており、志向性とその伸び代は概ね決定されている。段階的にランクが上下することはあっても、最後の日のそれは最初の日に決まっているのだ。

 

もちろん最初の思想が最後まで貫徹されるということはあり得ないから、厳密に言えば最初の日に全てが決まることはない。しかし寺山は「遠くへ行けるのは、天才だけだ」と言っているし、それは前述したミミックの精度に関わる問題で、即ち一切の事象は審美眼に集約されそこに神を孕むのである。

 

最後の審判の審美眼。そこに適おうとし続ける永遠の原理。その競争は受精競争に酷似していて、ならばセックスは永遠に繰り返されるという意味でもアートはやはり不滅だし、三島的に言えばそれは『フォルム』で、僕的に言えばそれは『オリンピック』で、歴史的終末の堕胎が『アート』ということなのだ。

 

即ち歴史的終末だけが答なのではない、芸術家のその全てが答なのである。前者は決して存在することのない永遠の幻想だが、後者は厳然として存在するという意味で、僕はある時から『answer is one』を『answer is ones』と言い換えたのであり、光は万人に宿る筈なのだ。

 

堂々たるものを堂々たるところへと。迂回するものは虚ろだし、重複するものも創造でなければ始まらない。そうやって神の輝きに満たされていけば彼の芸術の一切にドスが利いてくるが、これは『どこからでもどこへでも快楽に満ちている』という状況に準拠するべきで、それこそが彼の『極み』なのである。