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最後の審判 ~その本質と実態~

心象を究極まで篩にかけ、現象がにじみ出るか否かで最後の審判を下すのであるならば、誰もが同じ踊りを為すという意味において最小値ないしは最大値は無邪気であり、その中間値が邪気ということになる。即ちグリフィスの蝕における最後の涙は、最高度の子供帰りを表現しているという訳だ。

 

ある程度の段階までは裏切らなくても、蝕の段階にまで到れば誰もが裏切る。そしてそれが究極の本質であるならば、あの地獄に善悪を定義する――即ち最後の審判を下す――ことは不可能であり、スランの言うような「これこそ人間、これこそ魔」があるのみである。神の暗喩として、審判の矛盾として。

 

そう考えると最後の審判は無効であるにも関わらず、万人に志向され、しかし究極の本質の領域において異を唱えるものは永遠に現れず、即ち絶対者が永久未踏である限り僕達は遍く自由であり、神と同じ本質――聖なる無色透明――を有するのだ。人が神である限りにおいて神は人を肯定せざるを得ないのだ。

 

そこには『裁かれない為に裁かれにいく』というような矛盾があって、即ち最後の審判のステージは神々の神々による神々の為の肯定としてあるのみであり、しかしそこに到達しようが未達であろうが本質は本質として有する限り、人間は究極的には神と等価であり、かかる透明の決定論は地獄極楽を否定する。

 

任天堂ゼルダの関係にこれを当てはめてみた時、無限のトライアンドエラーは最大値から最も遠いものであり、任天堂はそれよりも遥かに近く業界屈指であり、その更に近づいたところに一切のエラーを漏らさない『絶対者≠神』があり、この任天堂と絶対者の中間に人間の限界――神の領域――がある訳だ。

 

何が言いたいかというと、スタイル別の伸び代は時間が永遠にある場合に限り、無限の彼方で一致するが、実際は有限である訳だから、そこにスタイル別の事実上の伸び代が階級化される。僕はゼルダを造れるが事実上造れないということであり、最後の審判――最早肯定でしかないもの――には立ち会えない。

 

もちろんそれは現象的な意味における審判だけど、この透明の審判を現象的に鳴らそうとする行為がアートであり、然るアスリート達の運動が世界を廻らせ、万物はこの原理によって最も速く流転しているのだ。心象的な審判は既に無効であることは明らかだが、現象的な審判は究極まで階級化されているのだ。

 

グリフィスはその階級で言えば最速の階級であり、ソクラテスの美学に最も適う人間だが、この考え方における最後の審判はキリスト教が言うところの最後の審判とは別物かもしれず、即ち到達者のみが垣間見ることのできるその『肯定の聖域』に善悪はなく、ただただ『無邪気な光』があるばかりなのだ。

 

最後の審判はその性質上肯定でしかあり得ないし、人も神もそう望まざるを得ず、その同一性の近似値を取りにいく運動がオリンピックであるならば、善悪とは彼岸と彼岸の内側にあり、即ち非オリンピック的なものが中間値としての善悪であり、オリンピック的なものが最大値としての神々なのである。

 

そう考えると善悪は本質で語られるものではなく、『速さ』でも『遅さ』でもない『曖昧さ』に表れるもので、それが現実的な世界を形造る最も人間的なゾーンであり、選択の自由の領域である訳だ。即ち階級化されたスタイル別の伸び代は彼岸に向かって光り輝き、そこから退行した生き様が善悪になるのだ。

 

要するに僕達が生き様を選択した時点で、現象的な意味での善悪は概ね決まってくるという訳だ。最も中間的な中層に善悪があり、言い換えれば最低級の善悪があり、最高級の実態がある訳で、彼岸それ自体に異を唱えることはできなくとも、その近似で異を唱えることが可能なら、それが究極の善悪になる。

 

そう考えるとグリフィスは究極の善悪ならざるものとなり、その結果光そのものになったもの、神になったものなのだ。善悪の彼岸において彼の葛藤――善悪の限界の揺らぎ――は最高級の本質となり、無色透明の神を揺り起こしたが、それが蝕であるならば、あそこにはやはり人間の全てが詰まっているな。