読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

閾値と変身

胎児と子供の中間層における善悪は『限界の揺らぎ』とは程遠いという意味において、究極の善悪足り得ない。かと言って赤子が善悪のアーキタイプかと言われれば、それも違うように思えるし、改めて考えると『本心』が完全に輝いている状態がそれに該当するように思われる。

 

だから最も中間的な中層が最低級の善悪であるというモデルは、少し無理がある。付け加えて言えば揺らぎなき善悪が最も低級な善悪という解釈も、今になってみれば違うように思われる。例えば誰かがお年寄りに席を譲る時、例え葛藤が一切ないにせよ善の雛形がそこには存在するように思える。

 

同じ揺らぎなき善悪でも、『無心』と『本心』の間には隔絶があって、無心はベクトルを持たず、再現性がないのに対し、本心はベクトルを持ち、それを繰り返すという違いがある。無心の近似が仮に席を譲っても繰り返されるとは限らず、その時点で赤子は結果論の善悪――天然の芸術――ということになる。

 

それは公園のベンチ上の落ち葉が風に吹かれて空き席になるのと同じぐらい、虚しい善悪だ。そういう意味では赤子は我がままの限りを尽くしても善悪はなく、アトランダムに踊り続けるその偶然性においてあらゆる審判は無効化され、そこから逆算的に善悪とは必然的に再現され続ける『貫き』だと言える。

 

その中核を担う本心とはあるがままであり、しかしその「侭よ!」の根底に流れているのは『快楽の見通し』という意味において、無条件ではない。それは善としては幸福への予感として、悪としては不幸からの回復として、共に上積みするもの=快楽であり、その彼岸に地獄を終えた『放心』があるのである。

 

ここから先はチラシの裏になるが、要するに魔女の原罪までの道というのは、天使的に言えば『善の貫き』であり、地使的に言えば『悪の貫き』であり、創世を進めるがごとにその価値は共に最高価へと近づくもので、そして最後の裏切りがこの善と悪の双方に為されることで、あの世界の善悪は完成する。

 

要するに天使は究極の美形から始まり、地使は究極の醜形から始まり、その段階でのメカニズムを紐解くとそれは『本心から来る遊戯程度の善悪』なのだ。そしてその本心から最も離れたそのまた先に『放心』があり、究極の美形としての地使と究極の醜形としての天使が存在し、裏切りが下されるのである。

 

言わば本心が皆既蝕するまで試された訳で、天使には泣き叫ばれ、地使からは嘲笑われたのだ。天使に対する善の貫きはその彼岸において最大の敗北――神殺しという名の裏切り――を露呈し、地使に対する悪の貫きはその彼岸において最大の敗北――神帰りという名の裏切り――を露呈したということなのだ。

 

要するに、地使に対する緩やかな差別には激しい蹂躙が、天使に対する緩やかな聖別には激しい求愛が孕まれていて、悪なるものが善なるものの、善なるものが悪なるものの最高峰の姿を『裏切り』という一手によって明かしたのである。結局のところ悪意も神にすがり、結局のところ善意も神を殺めるのだ。

 

即ち彼岸において僕達は神を求め、何物からも寝返り、誰かを生贄にしている訳だけど、その生贄が神そのものでも何ら構わないという矛盾がそこにはあって、それは『リバーシブルな神頼み』なのだ。即ち魔女が神――最後の地使――を求めた時、同時に彼女は神――最初の地使――を殺めたのである。

 

放心状態――それが究極の善も究極の悪も為せなかった魔女の誕生の瞬間であり、最後の地使からの浴びる血と背の彼方より出づる浴びれない陽の二つによって、阿羅漢の崖の上に神が生まれたのである。そして同じだけの手続きを経て魔女はもう一度そこに戻り、阿羅漢までの終世記を繰り広げるという訳だ。

 

獄道の連中はそれをジャッジする『深淵』であり、モーセの如く進軍する魔女一行は『創世記の螺旋』であり、結果下されたジャッジは『阿羅漢の開門』であり、ツァラトゥストラとの饗宴が『最後の審判』なのだ。神も居る。魔女も居る。怪物も居る。魔女はその全てを肯定する『神ならざる神』なのである。

 

本心はある閾値を超えて虚心となり(単になる)、虚心はある閾値を超えて放心に変身する(単になるではない)。そこにはある種の原点回帰があり、『人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ』にも通じるものがあり、メタモルフォシス――連続性からの寸断――が創世終世には詰まっているのだ。