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BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

ゲーム性神話

僕は時々「このゲームのグラフィックがPS1水準だったら面白いのか?」ということを考える。2D時代まで遡ってしまうとゲーム性がそもそも変わってしまうので、同じ3D時代の最初期に合わせた時、それでも面白いかどうか。これはもの凄く重要な視点のように思う。

 

グラフィックがゲーム性から逆算した必然である場合、言い換えれば、それなくして面白さの特定域に入れない場合、PS1水準(あるいはそれ以下)まで落としてしまうとそれが必然ではなくなってしまう為、面白さはある程度スポイルされるだろう。何となく思い浮かんだのはGoWとか大神だな。

 

逆にグラフィックがゲーム性にとって偶然に過ぎない場合、言い換えれば、他の何物にでも置き換わり得る場合、PS1水準(あるいはそれ以下)まで落としてしまっても、そのゲームは元々の形と同様に面白い筈である。これはマリオカートとかテトリスとか、比較的シンプルなゲームに偏っている気がする。

 

ゲーム業界には『ゲーム性神話』みたいなものがあると思う。それはおそらく任天堂から来てると思うんだけど、こうやって並べてみると『システム以外の全要素がゲーム性の構成要素に非ず(またはそれに近い)』というゲームが、最終的な境地での最高傑作になるとは僕には思えないのだ。

 

映像的必然も音楽的必然もその他諸々の必然も揃って初めて成り立つゲーム性、という方向性の方にこそ、僕は真実を感じる。そういう意味ではテトリスはある種システムでゲーム性が自己完結しているから、どれだけ工夫しても最高傑作にはならない。言い換えれば『あの方向性に黄金はない』訳だ。

 

マリオカートテトリスと同じ括りかと言うと違う気もするが、『システム単体でもゲーム性は不変』という意味においては同じカテゴリーだ。究極まで映像と音楽をそぎ落としても、システムさえ残れば面白さは不変なのだ。でもそれは逆に言えば『全要素をゲーム性に絡めていない』ということでもある。

 

但し『構成要素としての強弱』はあるだろう。グラフィックがゲーム性を可視化するツールに過ぎないのなら、それは大して強くないし、むしろ弱い部類に入る。どこまで行ってもシステムありきだし、それはゲーム性の成立と破綻に関わる問題だ。そこを神話にするのは問題ないが、混同がある感が否めない。

 

ゲーム性の構成要素の中核をシステムに置くのは問題ない。僕はそういうゲームの方が好きだし、いわゆる『雰囲気ゲー』はそれほど好きじゃない(ゲームにもよるけど)。ただ、システムが中核だとしても、それ以外の諸要素を構成要素に昇華する視点が要らないということではない。

 

人物、世界観、物語、展開、映像、音楽、効果音、声役、エフェクトなど、ざっと並べただけでもいろんな要素があるし、これらをゲーム性を可視化するに留まらせず、ゲーム性を形造る不可欠な要素に昇華する方が、ゲームとしては傑作になる。偶然的なものをなくすことの方が、作品的には美しくなる。

 

必然性の質と量の集積、及びその密度と継続性によって、面白さというのは決まると思う。但しベルセルクの蝕のようなテンションを全編貫き通すというのも矛盾なので、どうしても波はあるけど、基本的にテンションは必然性の集積の感知と比例関係にあるし、だからうちの親はベルセルクを楽しめないのだ。