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THINK ABOUT SOMETHING.

詩とブランディング

過去の経験則から大体の当たりをつけられる状況の多様化は、小説家を現実の最果てに誘う。寺山は『天才だけが遠くへ行ける』みたいなことを言ってるが、この当たりを外せば誰でもいくらでも遠くへ行けるが、そこに現実性はなく、深みもなく、求めるものが違うがそれが例えばライトノベルだろう。

 

小説家はより未来により遠くに行く。アイディア先行型の小説に関して言えばその限りではないかもしれないが、純文学に関して言えば基本的に後期に向かって書ける深みは深くなっていく。過去が増えると経験則も増え、シーンに対する当たりの正確性も増す=進路も増えるという訳だ。

 

これは日常にも言えることで、シーンに対する当たりの正確性が増し、進路が多様化すると、過去に行けなかったところまで辿り着ける。これは必殺技(例えばベイプスタや神曲)で一気に持っていく話ではなく、もっと燻し銀の『あらゆる進路を経てトータルで前進した量』を意味する。

 

無限大が神であるならば、天才はその近似であり、個人史の長さと行ける遠さは比例する。即ち繰り返しになるが『より未来により遠くに行く』ことができるようになる原理があって、過去の総和=個人史の長さはその個人のストレングス=行ける遠さになる。歴史は万人を天才に変えるのだ。

 

そして誰が神に最も近い座に座れるかは、誰にも分からないのだ。この進路の多様化はバタフライエフェクトのように結果の予測がまるでつかないところまで行き着くし、修羅と真逆のか弱き蝶が神――始点からのクォータービューでは見渡せない最果て――に到ることだってあり得るのである。

 

但しここには救いもあって、純文学はあるレベル以上の作家になれば放っておいてもいずれ竜巻を起こす。もちろんプロットが要らない訳ではないし、ダンテの神曲のような構成も嫌いじゃないが、ドストエフスキーの如く燻し銀的にあらゆる進路から伸びていく構成の方が、最終的には強いという直観がある。

 

アイディアや構成に当たりの誤差を無効化する強度がある場合、最早当たり外れ(現実度)に関係なく一気に持っていけるが、その前進は遠きへの進軍ではなく、同じところの環状線に過ぎない。要するにシンギュラリティであり、その究極以外のものは全て究極に敗れるというようなヒエラルキーがある。

 

そこから導かれるのは、『陽はまたのぼりくりかえす』の軌道を再現するのが詩の最高峰ということである。遠くに行くのではなく、同じところを何処までも廻るものの最高峰が、当たり外れとは無縁の詩の究極なのである。詩人の深淵は本質をえぐらないが、永遠に廻るものの比喩として『光』になるのだ。

 

ベイプスタはナイキに勝てないし、神曲も聖書には勝てない。それぞれの前者の方が見掛けの輝きは上なのだけど、それぞれの後者の方が『永遠に廻るもの』と結び付いている。即ちスポーツと宗教だ。この二つは限りなく似ているし、『陽はまたのぼりくりかえす』の第二第三と言っても過言ではない。

 

もちろんベイプスタは芸能人戦略が機能していた時期もあるし、神曲も思想として読めば廻り続けるかもしれない。しかしそこには『オリンピック的要素』が決定的に欠けていて、『記録への野望』と『アイコン』が紐付いていないぬるま湯に過ぎず、両者は『神を目指す者の衛星』にはならないのだ。

 

そう考えると聖書は『履物』であり、聖書それ自体が輝いているのではない。聖書を履く者が神に向かって歩み続ける限りにおいて輝くのであり、これはナイキにしても然り。それを万人に行き渡らせたという意味でナイキと聖書は限りなく近いものであり、共に『光の軌道』を再現したブランドなのである。