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THINK ABOUT SOMETHING.

オリンピック的視座

燻し銀のあらゆる経路を経た後の黄金としてのゴール。あるいはゴールそれ自体が直接的にやって来るケース。前者を『肉迫型直観』と呼ぶとすれば、後者は『純粋型直観』であり、世の中で一般的に言われているインスピレーションというのはこの純粋型に相当するだろう。

 

僕は基本的にこの直観を信じないが、しかしその近似は信じる。『悩む』という行為と『迷う』という行為の違いは後者が『迷う方向に行く』なのに対し、前者は『迷わない方向へ行く』というところにあるのだが、ゴールまで迷いに一切晒されず肉迫した直観としての純粋型はあり得る。

 

ここで肝心なのは、純粋型も結局は肉迫型の能力を要求されているということだ。即ち語彙がなくても道は開かれず、想像がなくても道は開かれずというような闇に当たりをつける行為を肉迫型直観と同様に行っていて、それが総じて当たり続けるような直観としてのみ純粋型は成立する訳だ。

 

如何に短い言葉のジャンルでも、例えばキャッチコピーや短歌等の類でも、この構造は変わらない。もちろん僕自身、答が突然やって来るようなインスピレーションは何度も味わっているが、そのプロセスを詳細に見ると結局『悩み抜いた帰結』としてそれがある。即ち『迷いがなくなった瞬間』だ。

 

燻し銀のあらゆる経路を経た後の黄金としてのゴール――これは何も不可逆の行きっ放しではなく、行ったり来たりも含み込む行為であり、そこで初回からゴールまで行き切るということはゼロに近いし、総当たりに当たりをつけて悩み抜いた挙句の起死回生――それがインスピレーションに他ならないのだ。

 

これはバタフライエフェクトの竜巻に極めて似ている。自動書記をしていて振り返れば黄金があった、という体験をしたことがある人なら分かるだろう。そして『総当たりに当たりをつける』のが蝶のはばたきに相当するならば、そこを磨くことこそ直観への王道で、向こうからやって来るのを待つのは邪道だ。

 

要するに肉迫型の必要案件としての語彙、想像、哲学、思想、経験等が蝶のはばたきなのだ。他にも要素はいくらでもあるだろうが、その諸要素を無数に横断しなければ成り立たない芸術の方向に僕は黄金を感じる。少ない要素で一気に持っていくような例えばベイプスタは、最終的見地では弱く、敗れる。

 

全てが必然的に生かされているという前提で、この諸要素が多ければ多いほど凄まじい竜巻を起こす。但し少ないところの黄金が悪という訳ではなく、それはポップアートとして受け手としても作り手としても大衆に愛されている。即ち組み合わせの妙があるからこそ、誰にでもチャンスがあるのだ。

 

しかし僕としては蝶より人間の方が、即ちバタフライエフェクトよりヒューマンエフェクトの方が、竜巻どころではない凄まじい何かを引き起こすものだと思っている。それは諸要素が多いというところに起因するし、それらを必然性に昇華すれば原爆だって生むのが人間なのだ。

 

それをポジティブに昇華したアートが一つの王道なのかもしれない。蝶のはばたきの有効性――即ち大きな必然性に通じるカリスマ――よりも、人間のそれの方を僕は愛する。岡本太郎の『芸術は爆発だ』という言葉はおそらくこういうことで、しかしそこには肉迫型に要されるカリスマが必須なのだ。

 

そしてオリンピックはここまでに記した全てを表しており、スポーツの勝利の最高峰に特別な意味を付与した三島の気持ちが、今になって何となく分かった気がする。あそこには人間の全てがあり、あの視座からでしか人間の黄金は掴めないのだ。それは文学も然り、科学も然り、即ち芸術の全てに然り。