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THINK ABOUT SOMETHING.

ヴァンパイア理論

『もし、一が神であるならば、無限大は、悪魔である』という言葉がある。シモーヌ・ヴェイユの言葉だが、この一という数字が神ならば、この数字は死んでいる。これは一そのものが無限だからであり、無限に確定できない彼岸がそれならば、神は死んでいる。

 

しかし人はこのデッドナンバーを永遠に求める。最小単位で言えば恋人。二人の愛を一つにあらしめんとする。しかし吉本隆明が言うように円満な家庭など幻想だし、両者間でこの見え方には必ず差異があり、そこから綻んでいくのが妥当。1+1=2すら幻想のこの世界で、確定できるものなど何もない。

 

哲学的に無知に近いので間違ってるかもしれないが、反対に最大単位は『我思う、ゆえに我あり』だろう。これは万人万有の確実性を表す哲学史上最大のトピックで、しかし光の速度が無限に細分化できるように、『ある』という言葉の定義も無限に細分化できるなら、やはり一つにはならない。

 

とてつもなくいい線行ってるのだが、言葉の曖昧性によって成立する欺瞞なのは間違いない。即ち二人以上の間で成立する一つというものは、厳密性を無限に高めれば存在し得ない訳で、一人一人の感じた一つ一つがただバラバラに存在し、それらは総じて同じ一つにはならないのだ。

 

それでも僕たちはこのデッドナンバー――『1』という名の神――を強く希求する。学問の世界は総じてそれを目指しているし、この不可能性への永遠の接近という構図はオリンピックと全く同じ。『理論上完璧なもの』と『現実に限界なもの』との隔たりを埋めていくのがそれで、しかし神など不可能なのだ。

 

しかし不可能だからと言ってそこから離れるとどうなるか。ドストエフスキーの言うように『神がいなければ全てが許される』のであり、シモーヌ・ヴェイユ的に言えば一から最も遠い無限大――偶然性という名の悪魔――に行き着くだけなのだ。

 

『1』というデッドナンバーはつまり、デッドゆえにアライブであり、不滅であり、それが三島的なフォルムになるのである。寺山が三島との対談で見劣りしていたのはその点で、アライブゆえにデッドという逆説を見抜けなかったところにある。僕はアンフォルメルには何の期待もしていないからね。

 

神は最大の必然性である。それゆえに数字で表すならば、『1』でしかあり得ない。二つ以上あればその時点で必然性は分散され、最大の必然性ではなくなる。しかし悪魔にその心配は要らない。必然性がなくなればなくなるほど完成されるからで、ゆえに数字で表すならば、『無限大』でしかあり得ない。

 

僕たちが無意識的に神を希求するのは、この辺が関係しているように思う。虚無とか自由の話にも結び付くと思う。恋愛が人を強くしたりすることがあるのは、この原理に則った場合のみ。そしてそれが適った場合のみ。限りなく必然的になろうとする行為は、不可能ゆえに全て美しいのである。

 

つまり悪魔は逆説的に、枷だらけで、神もまた逆説的に、究極の自由なのだ。アンチテーゼが全滅する絶対の世界、それが『神の領域』であり、全ての振る舞いが無因果なのに対し、悪魔は神を原因に据えないといけないから、その究極因によって必然的に雁字搦めに陥るのである。

 

無因果の聖なる振る舞いとはつまり、究極的には全てを照らす光であり、光速のような限界もないものであり、その究極因を前提に反対の領域=即ち影に生きようとしても、それはほとんど成り立たないということなのだ。だから僕は素直に神を目指すし、アングラは昔から苦手なのだ。

 

最高に必然的なものは最高に美しく、最高に自由なのだ。もちろん松本人志を面白いと感じない人も、キース・ジャレットを素晴らしいと感じない人もいるだろう。しかしそこを叩いてもその影の領域は狭いし、理論上完璧なものの不可能性に寄生してても仕方ないのだ。

 

光――楽園にあらんことを――は、一意を目指す最たるこの怪物は、永遠に一意に確定することなく、無限に膨張する。万人万有の第一原因として、その究極の帰結に際限なく接近する。してみれば悪魔はより遠くへ向かい、神はその完全性を、悪魔はその虚構性を高めていく性善説ができあがるのだ。