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THINK ABOUT SOMETHING.

芸術量産機

昨日の続きだが、例えば『ピアノが上手くなりたい』という初期値のアトラクターの場合、これはもう才能依存だ。熱量をどれだけかけても『超えられない壁』が出てくるし、しかしそれをストレンジアトラクター的に解釈すれば、目的外の約束――即ち芸術の爆発――が生じる。

 

異種アトラクター間の相対性ではなく同アトラクター間の相対性、即ちヨコの比較ではなくタテの比較、あるいはジャクソン・ポロックのナンバリング前期と後期、キース・ジャレットの完全即興演奏の前期と後期、そういうものを超えた無限大の最果てに無限大ゆえの『絶対性(芸術の爆発)』がある訳だ。

 

『これより大は何もない』と断じるのがストレンジアトラクターの究極の帰結であり、アトラクターそれ自体の宿命であり、どの宿命に乗るか僕たちは選択することができるが、帰結は全くの予測不可能である。僕が絵画をやろうともピアノをやろうとも、この原理の上に立つ限り、最後は必ず爆発するのだ。

 

予測可能なアトラクターは、爆発を起こせる者と起こせない者に分岐するが、予測不可能なアトラクターは逆説的に、全ての者に爆発を約束し、ゆえに予測可能な現象を目指してはいけない。ジャレット以上の技巧派などいくらでもいるし、しかし彼が評価されている現状を如何に解釈できるかにかかっている。

 

そして次に考えるべきは『どの宿命(アトラクター)に乗るか』だろう。これは最も自我的なもの、固有的に抵抗が働かないもの、言い換えれば『エロス』がそれであり、昨日の式で行けば『自動的代謝-生理的代謝=当人の個人的代謝-万人の個人的代謝=当人のエロス』ということになる。

 

例えば僕の場合、肉体か頭脳かで言えば頭脳派だが、更にそれを文系か理系かにも分類できるし、文系なら哲学か文学か、文学なら散文か詩かなど、無限に細分化していける訳だが、この最小点は必ず『未定義なるもの』に帰結する。定義できてしまえばまだまだ他者と重複していることになるからだ。

 

その最小点周辺が上記の式のエロスに相当し、これはもう各人試行錯誤するしかないが、強いて言えば心理学的類型論で自分を分類し、同分類の偉大なる先人を目指すのが手っ取り早いと思う。今は決定論を捨てたけど、僕の場合はそれがスピノザだったし、あるいは宮沢賢治でもあった訳だ。

 

だがエロスと同じように、人間は結局のところ人口の数だけ類型が存在する。その最小単位が『自分』だ。だが類型論で大きく括ってやるとそれを見つけやすくなるから、類型論はその最小単位の導としては有効なのだ。僕は今はスピノザと全く違う領域に来た実感があるし、それはつまりそういうことなのだ。

 

ちなみに『偉大なる先人=ストレンジアトラクターの宿命に帰結した人達』と見ていいだろう。彼らはその原理を知っていようが知っていまいが結果的に到達した人達であり、そのいずれもが総じてパラノイア的な継続性を伴っており、そしてそれを知った僕らは彼らをロールプレイすることができるのだ。

 

予測できない爆発の約束か、予測できるものの無保証か。僕は前者を取る為にストレンジアトラクターに乗るし、芸術家の量産機のメカニズムを昨日今日でつぶやいたつもりだ。それが分かれば後はロールプレイ(量産機を稼働)するしかない。このメカニズムの螺旋は強烈なのだから。