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THINK ABOUT SOMETHING.

人間の振り幅

バランス論の延長。人間の『振れ』を見たくなったら、神経質なこと、言い換えれば『発散』ではなく『収束』をやるといい。例えば針の穴に糸を通すとか、全方位に動ける(発散)にも関わらず、一筋の動線に束ねる(収束)というようなことをやればいい。

 

これをすると先ず指が震える。そんな針はないと思うが、この針穴が広くなればなるほどこの震えは収まる。人間がスピーチなどで緊張するのも同じ原理で、フリートークではなく、言葉の展開が一筋に束ねられているのが原因なのだ。

 

このどちらの例にせよ、あまり震えたり緊張したりしない人は元々振れの少ない人だ。逆に一つの決められたところに向かう行為で震えや緊張が伴う場合、それが鮮明なほど振れが大きい人ということになる。そして人間の器量の大小は、この振れの大小と反比例関係にあると思う。

 

基本、器の大きい人というのは細かいことを気にしないし、何をするにしても答が広い。悪く言えば「何でもいいやん」という雑な発想になりがち。だからこそ相手のことを何でも許せるし、決まり決まった発想をしないし、その時々でその人なりの最適解を出すところがある。

 

反対にこの振れが大きい人は細かいことを気にするし、ストレスをためやすい繊細な性質を持っている。イメージ的には大きなメトロノームがあって、外からの些細な刺激でその振れが跳ね上がるような感じ。その振れを押さえ込むことに慣れ過ぎていて、いつまで経っても本来の自分を出せないケースも多い。

 

しかしこれは僕は『爆発力の裏返し』だと思うし、岡本太郎の『芸術は爆発だ』に通じるものがあるように思う。言い換えればこの振れの小さな人、即ち器量の大きな人から素晴らしいアートはなかなか生まれないのではないか。この仮定が正しいのなら、芸術性と器量というのは基本、反比例の関係だ。

 

『神は細部に宿る』と言うが、内的に暴れるような振れを持った人間の静寂、つまり一筋に束ねようとした時の爆発力は、この言葉へと通じているのだと思う。芸術がほんとうに爆発ならそれは岡本太郎が言うように静寂でしかあり得ないし、心の震えは感動を知っているのだ。

 

仮にこの内的な振れ・震えを育てられるとすれば、何事にも真剣に取り組むことしかないと思う。ひとつひとつのことを厳密に、正確にこなし、すべての細部に神を宿す。子どもが大人に向かって緊張を高めていくのも、このフォーマルになっていく仕組みと関係しているように思う。

 

裏を返せばやはり、人は振れを大きくできる。フォーマルになっていくに従って、人間性の幅ができてくる。ヒッキーを否定する訳じゃないけど、僕のひきこもり時代が人間的につまらないのはつまりそういうこと。アンフォルメルには何の振れもなく、正直つまらないのだ。

 

僕はだから安易な逆転の発想よりも、純粋な正攻法を愛する。フォーマルになっていくところに人間の真価があるということを信じる。ランダムウォークは何も生まないし、ブレイクダンスなんて踊りっこない。つまり価値の閾値はフォーマルでしか越えられないのだ。