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THINK ABOUT SOMETHING.

フォルメルとアンフォルメル

内在確率とはつまり『それ以上禁じられる別様残率』を意味するので、許可空間が∞のとき内在確率は100%になり、許可空間が1のとき内在確率は0%になる。この内部方向というのは別様残率がなくなっていく涅槃の方向であり、外部方向とはその対極であり、フォルメルとアンフォルメルに対置される。

別様を禁じなければ現れ出ないものと、別様が生きているなかでたまたまそれが現れ出るというものは共存できない。後者が前者を指し示すことはあり得ず、つまりアンフォルメルでありながらフォルメルであるというようなことはあり得ない。そして自分はフォルメルが現すものにしか創造性を認めないのだ。

例えば針穴に糸を通すことを考えたとき、歌を歌いながらでもラジオを聴きながらでも糸を通すことはできる。これは『別様のどれでも成立し得る』ということを意味し、針穴に糸を通すことは実はそこまで別様の禁止を求めない。つまりアンフォルメルでも成立してしまうということなのだ。

ところがこれが『100mを9秒台で走る』ということになるとそうはいかない。歌を歌うこともラジオを聞くことも『無駄な別様』でしかなくなり、それらを禁じなければ100mを9秒台で走ることはできない、つまりアンフォルメル(別様主義と言っていい)ではフォルメルの代用に永遠にならないのだ。

フォルメルが現象化されたとき、例えばトリプルアクセルにしろブレイクダンスにしろその人の顔は必ず真顔で、それ以外の別様を一切認めていないという共通点がある。自分はそういうものにしか創造性を感じないし、フォルメルとは『条件ごとの模倣』と銘打たれた創造行為のことなのである。

アンフォルメルはフォルメルの代用になり得ないが、フォルメルはアンフォルメルの代用になり得る。人のしあわせは選択肢の多さだと自分は思うが、その点でアンフォルメルがしあわせになりにくいのは自明のことで、それもそのはずアンフォルメルとは何も選択していないものの名前に過ぎないのだから。

何も選択していないという選択は別様を完全に容認している。これは『選択肢を選ぶという選択肢』を持たざる選択で、その選択肢は一択(つまり最少)。フォルメルからアンフォルメルまではグラデーションで、白と黒の二値ではなく灰の多値だが、最果てのアンフォルメルとはつまりそういうものなのだ。