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ゼルダかディアブロか

世の中には量的ロジックのゲームと形的ロジックのゲームがある。前者は「必ずしもその手順を踏む必要はないが踏んだ方が圧倒的に有利」というロジックを指し、FFで言えば海の敵に雷系統の魔法を使うようなもの。


でもこれは「絶対的な手続き」ではないので例えば通常攻撃を繰り返すだけでも倒すことが可能な「別口の許されたロジック」。翻って後者は「必ずその手順を踏まなければ一切進展しない」というロジックを指し、ゼルダで言えばバメット(亀)をハンマーで引っ繰り返してから攻撃するようなもの。


これは絶対的な手続きなので別口は一切許されていない「0か1かの二値的ロジック」で、この両者のロジックには一長一短がありどちらか片方を手放しに評価できるものではない。


先ず形的ロジックの長所はクリエイターが形的ロジックを設計するとその奥に「万人一様の聖域」が必ず生じる点にあり、その聖域の中にも形的ロジックを設計してやることで聖域は多層構造を持ち始め、一種の大聖堂を形成する。


そしてプレイヤーが知恵を振り絞って聖域を更新していくごとに大聖堂はその相を明るみにし、物語も同様に末広がりの相を見せ始めるという諸々の転換点に「神の一手(進展する契機の一本化)」を置くことで一大カタルシスの構造ができあがる。


それは換言すると「勇者感が一線を画している」ということであり、「聖域が進展する契機(世界の壮大化)」と「物語が進展する契機(主役の壮大化)」を神の一手で紐付けたその構造は実に宗教的。


万人万様のプレイヤーが神の一手で必ず合流するその一様性には「信仰の精神」が宿っており、即ち「答(神)が一つだから信仰足り得る」のであって「答(神)が無数にあるなら信仰足り得ない」のであり、俗域と聖域を二値的に区分することで初めて「応報の神秘(信じる者の総集的肯定)」が成立する。


だからゼルダは謎を解く度に派手な効果音を鳴らすのであり、それは0と1を明確に区分して達成感を煽る為であり、0から1に至った全てのプレイヤーはその総集的肯定の領域(聖域)で全てのプレイヤーと無意識的に感動を統合する。


これは「聖域が一様であるが故に(プレイ人口に比例して)感動が増幅される」という図式であり、言わば宗教と全く同じで、逆に聖域が万様であれば感動は共有も統合もできる筈がなく、答の数だけあちこちに分散してしまう。


それが量的ロジックの本質であり、形的ロジックのシンプルイズベスト的設計には勝ち目がないように思えるが、形的ロジックの本質である「答がお膳立てされた世界」というのは少し極端だが「カジュアルゲーム」に分類される(厳密には意味が違うだろうけど妥当な言葉が他にない)。


それは誰にとっても分かりやすい0か1のシンプルな構造ではあるけれど、最大公約数的な面白さしか狙うことができないという根本的な欠陥があり、即ち「感動の統合(最大公約数)」と「感動の天井(瞬間最大値)」はトレードオフの関係。


つまり統合を大きく取ると天井は必然的に低くなり、天井を高く取ると統合は必然的に小さくなるという構造があり、翻って量的ロジックの最たる例であるディアブロを見てみると、明らかに一部のライト層を切り捨てた「0か1」ならぬ「1〜∞」というアナログ的な設計になっている。


その切り捨ての代償として感動の天井をいくらでも高く設定することが可能になるが、これにはかなり選民思想の要素があって面白い人はとことん面白くても面白くない人はとことん面白くないという「ゼルダと正反対の設計」でもある訳。


言わば「ゼルダディアブロか」という対比は「神か己か」という対比でもあり、ディアブロに分かりやすい効果音が一切ないのは偶然ではなく「神を感じさせない設計」にしようという思想が根底に流れている結果。


「明確な答」も「答の明示化」も一切お膳立てしないのが量的ロジックのゲームを構築する際の真髄で、但しそれだけでは「万人万様の己(主役の統合ならぬ主役の個別化)」を満たせるとは限らない為、神の代わりに膨大な量的要素を盛り込む必要がある。


それが……ディアブロ3のビルド総数968億通りという訳です。