落とし所≠中庸
今日は何となく車のことを考えていて、厳密にはそこだけではないのだけど黄信号時の判断で結構人間の性格が出る。
例えば停止線の直前まで来てる時に黄信号になっても後続車が危ないので渡り切ってしまうのは普通の判断だが、その判断の最低ライン以降に各自の「渡る/渡らない」の線引きがある訳だ。
運転に慣れてくるとこれは大体みんな一緒のタイミングに収束し、その平均範囲を「落とし所」と言うことができると思うのだけど、ごく偶に赤信号になっても渡り切ってしまう奴だとか、逆に早過ぎるタイミングで止まってしまう車も居る。
ごく単純に杓子定規で判断するのならこれはどちらとも「バカ」だ。だからこの二つを芸術における過激派と保守派に置き換える訳にはいかない。つまり「非常識を武器化している」というより「非常識に甘えている」という方が正しい。
常識の外に出るのは簡単だ。宮本武蔵じゃないけれど、初心者はそういう所に最初からアクセスしたがる。でもそういうのは格闘ゲームで言う所の「魅せ技」に過ぎないし、実態は空虚なものなのだ。
つまり僕は何が言いたいかと言うと、天下は突き抜けた特別な行為に宿る訳では決してなく、むしろ落とし所の内側からそれ自体を書き換えるようなシンプルな領域に宿るもの。梅原のようなファンタジスタは「組み合わせの妙」で魅せる訳で、そのマジックは単体では成立しない(三島由紀夫の自決もそう)。
即ち真の異端は人外に非ず、むしろ人の奥から現れ出るものなのだ。過激派も保守派もリアリティー(落とし所)の圏外では実は成立しないし、僕はそういうアングラ(今風に言えば厨二病)が全般的にキライです。
逆説的だけど、落とし所を参照する人間からこそスーパースターは現れる。芸術は足していくよりは削っていくものだから、この本質は変わらないです。それ以外のスターは表面現象というか、アイドル(偶像)と言う方が正確。