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THINK ABOUT SOMETHING.

大必然性という理想

文化が歴史化するとそこに文法(伝統)が生じるが、これを一切踏襲しないで創造するということは先人がありとあらゆる角度から検証した必然性を放棄するということ。伝統にはそれなりの根拠がある訳だ。


但しこの構図は文化史が深まれば深まる程その色を濃くするように思えて実はそうではなく、時代と共に文化の要素というのは多様化または複雑化していくから、今度は伝統が細分化していって唯一的な王道が相対的に廃れていく訳だ。


ここで勘違いしちゃいけないのが「必然性が無かったから別の道が生じた」のではなく、「必然性を敢えて外さなければ埋もれてしまう」という別の必然性の要請によって道が生じているということ。例えば新進気鋭のファッションブランドでこのパターンは多いように思う。


アルマーニが完璧主義的に必然性を食い潰す限り下克上は中々起こらない。即ち多様化と複雑化という文化の世相は特権階級による完封の結果に過ぎず、その甘い蜜を独占している連中を切り崩す為には既存の必然性を小とする大必然性が必要なのだ。


これはそのジャンルの文法を心得ている者でなければ到底成し得ないことだが、逆に文法さえ心得ていれば現必然性を旧必然性に追いやることはそれほど難しくない。素人とは違ってエンジニアは特許を量産できることを考えればこれは分かりやすいだろう。


問題はその凌いだ量、前進した量にある訳だが、それが僅かだと旧必然性と呼び捨てる程のレベルではないし、大きく凌いで過去化する程の前進が求められているのである。


それを放棄して独創性に走るとほとんどの場合カルトになるが、逆に対峙して普遍性を目指す者にはあらゆる神話が保障され、ニーチェの深淵論の素晴らしき肯定的側面を知るのである。


科学と違って芸術の推敲にゴールなんてないけれど、楽園のボーダーラインというものは確実にあると思う。だから大必然性は宗教の理念のようなもので到達自体は問題ではなく、そこを目指す「フォルム」にこそ意味があり、神が宿るのである。


ALL iS iN GOD, GOD iS iN ALL.