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THINK ABOUT SOMETHING.

人はみな変態

シルバー事件の中で「人はみな変態ですよ」という台詞があったが、人間の極端に狭いスイートスポットを剥き出せば本当にその通りだと思う。


食を一つ取っても理解できない趣向があるし、服を一つ取っても理解できない趣向があるし、全てのフェティシズムがステレオタイプに収まるような人間は、間違いなく居ない。


但しステレオタイプというストリームは変態と変態の出逢いを造る。我ながら何を言ってるんだろうと思うが、個人的美意識というのはそもそも極端にスイートスポットが狭い=傍から見ると変態だから、普遍的美意識との最大公約数を参照することでさりげなくフェティシズムをアピールする訳だ。


でも普遍的美意識の参照というのは形式的なものに過ぎないから、それを脱ぎ捨てた時にとうとう変態と変態のぶつかり合いが始まる訳だ。それはインタラクティブな個人史の聖なる肯定で、結果ベルセルクの蝕以降の如く世界が一変するのである。


その一変した世界をどこまでも深め合う不可解な所に「絆」が生じる。変態論と絆論を結び付けたくないけれど、現実はそんなもんだ。だからブラッド・ピットアンジェリーナ・ジョリーが気持ちのいいセックスをしているとは限らないし、上には上の変態がゴロゴロ居るということなのだ。


仮面的な部分と変態的な部分の隔たりが激しい程恋愛は面白い。その奥深さを知らないままステレオタイプに同化すると今度はこの構造を他者に代入し始め、いわゆる浮気というものになる。もちろん変態でも浮気はするけど、タテに背徳するかヨコに背徳するかという時にヨコには中々流れない。


変態と変態の出逢いはある意味運命的なものだから、仮初の背徳なんかに比べるとエクスタシーが全然違うのだ。浮気は確かに気持ちいい。でも、純愛はもっと気持ちいい。


今回のツイートは全体的におかしいけど、まあいいか。僕も変態やし。