無意識の夢を見よ
長いこと創作をしていると「言葉が自然発現する」という状態に辿り着く。そこに至るまでの詳細は説明不能だが、これは大袈裟だけど宇宙の創生とかと同じ話。要するに虚無と夢のプリミティブな波打際が在って、その衝突を意識化し現実に焼き付けるのが芸術という訳だ。
ツイッターでつぶやいたかどうか覚えてないが、僕は「全ての胎児の始まりは夢」と考えている。即ち胎児にとっての夢というのは「虚無の近似」であり、親にとっての夢というのは「性行為」であり、それらが虚無で邂逅することを僕は「受肉」と呼んでいる。
「言葉が自然発現する」というのは例えば「漢字」だ。学んだ訳でもないのに読めなかった漢字が読めるようになったり、書けなかった漢字が書けるようになったりするのは意識じゃない、無意識(夢)の仕業だ。言い換えれば「創造行為」の一種だ。
またまた昔の自分の逆説になってしまうけど、世界構造の比喩と創造行為の実態が一致するのが理想なのだとすれば、この自動書記的状態こそ芸術の最高峰の形態ということになる。どこに向かおうが何を行おうが芸術化される理想の境地という訳だ。
但しこれは強靭な精神あってこその到達であって、いきなりそのフリーセックス(自動書記的状態)の権利は獲得できない。何故ならここで言うフリーセックスとは虚無主義者の為のものではなく、現実主義者の為の聖域であって、垂れ流しとはまた意味が違うからだ。
僕は創作論で「一点豪華主義」をこの聖域のカギとしている。そしてそれは螺旋的に微視から巨視へと輪廻していくものだから、次第にその赫灼たる光の射程も広がっていき、楽園に達する訳だ。
全ての道は修羅道に通じているが、神以降の領域がそれだとすれば頂は幻としても「無限には懐が在る」ということになり、そしてそれこそがアートビルディングの現実的な到達に他ならない。高みないしは深みはエンドレスに続いていくけど、おおよそ全ての創造はそこで平均化されるからだ。
「無意識の夢=自然発現」と定義して、それの受肉の領分が縦横無尽となればそれが「芸術」だ。そして意識を押し殺した夢の具現こそ「芸術家の真価」であり、意識は無意識以上のものを産み出すことはできないのである。
つまり意識の押し殺しとは無意識にアクセスする行為だが、そこで無意識以上のものを引き出すことはできない。故に無意識それ自体を鍛える必要があり、その具体的な道筋こそ繰り返しになるが「一点豪華主義」なのである。