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THINK ABOUT SOMETHING.

楽園の為の非我

大人は形を守り抜く。若者は革命に妥協しない。故に若者は華々しく映るけど、対する大人は燻し銀だ。若者は射精後の後悔感を内に孕んでいるが、大人はとっくにそれを通り過ぎて生きているからだ。


それでも若者の反抗は世界の為に必要だ。何故ならダダイズムはリアリズムの礎となるもので、それがなければ淘汰の技術も審美眼も伴わないからだ。


ダダイズムというのはピカソ的に「全部取ろうとする行為」だろう。その段階を通過しないと残すべきものと捨てるべきものの精査ができなくなる。要するに、ゲルニカになっちゃう。


勝手にゲルニカを反抗期のシンボルとして扱うが、一度あの絵に失望する所までとことん反抗しておかないと、後にアートビルディングの至る所で綻びが出てくるし、見る人が見ればその綻びは察されてしまう。


僕は地上的体験をある時期まで軽視していたが、そういう(真贋を精査する)意味でその体験も不可欠だと気付いた。即ち山を昇ることばかりに意識が向かっていたけど、時には全てを取りに山を降りるのも大切だったのだ。


ちょっと論点がずれてきたけど、更なる高みを目指そうと思えば地上の有象無象を体験しなきゃならない。山のどこで力尽きるかはクライミングのテクニックに懸かっているが、それは言い換えれば「真を取る技術」に他ならないからだ。


完璧な道は幻想としても、完璧の近似を取っていくことはできる。未来永劫は不可としても、永劫の懐を目指していくことはできる。これこそが芸術家にとっての「輪廻の両輪」であり、三島の「我に学ぶものは死す」に繋がっていく訳だ。


即ち完璧の近似とは道筋の認識であり、永劫の懐とは高みの認識だが、この両輪を機能させる為には審美眼が不可欠で、それは我だけでは備わらない。要するに、逆説的だが楽園は失楽園者にしか入ることはできないのである。


アダムとイブの楽園は「我」しかないし、だから滅びた。そしてその失楽園者の血筋が地上と天上の往来を繰り返し、革めて楽園を目指した。これは多分、偶然の展開というより何か本質的な必然性を物語っていると思うのだ。


それが何かはよく分からないけど、僕の高さで言えることは「無形なくして有形なし」ということだけ。ちょっとこんがらがってきたけど、重要なのは自分自身よりも自分以外を据えること、多分これじゃないかな。