ライブの嘘は光か
友達にYouTubeで「We Are The World」的な動画を見せられた。そして一瞬で、見る気が失せた(見たけどさ)。
確かチベタンフリーダムコンサートだったと思うが、当時僕が好きだったトム・ヨークとベック・ハンセンで意見が分かれた。少し記憶が曖昧だが「音楽で世界を変えれる気がした」というものと、「音楽で世界が変わるとは思っていない」というものだった。
青臭い頃の僕なら前者を信じていたんだろうけど、今の僕はある意味醒めてて、後者の考え方に落ち着いている。だから前述した動画を見せられて、すぐに見る気が失せたのだ。
その中には僕が多分、邦楽で一番キライなアーティストが居た。そのキライな理由というのは「ミュージシャンは言葉(歌詞)の保障人になる責任はない」という当然の原則を利用して、嘘八百並べ立て、それで生きているような連中だからだ。
日本という国は絶対に甘い。言葉の真偽が問われるギリギリの状況が中々やって来ない。「俺はいざとなったら闘う」とか言ったって、そんな状況がそもそもやって来ないんだからいくらでも気取れるし、好き放題言える。
それを意識的か無意識的か知らないが、内心で利用しながら嘘の言葉を撃つ。ギリギリの現場とは全く無縁のステージの上から、安全圏内からそれをやる。あの中の何人が掌を返さずに、自分の言葉を貫けるか。そういう違和感が在ったのだ。
まあでも、ああいうライブも悪くないな、とも同時に思う。事実だけでは人は生きていけないし、だから嘘は癒しにもなる。でも僕がそこで思うのは、嘘も方便と言うけれど、事実を超える嘘を付くぐらいまで徹底しないと、全部無駄になるということ。
事実と嘘がひっくり返るような錯覚って、音楽に特に強い要素だろう。嘘を付いて逆に事実が露呈されるようじゃ話にならないけど、「この嘘なら信じられる」という領域まで行けば、事実が霞み、嘘が溢れる訳だ。
「希望」とか「平和」とかって基本的に嘘だと思うけど、これを信じさせる為には錬金術師的なテクニックが要る。闇だと思っていたものがいつの間にか光に変容しているような、極めて自然な幻術が要る。つまり寺山修司のような言葉使い。そういう連中のライブなら、いつでも僕は足を運ぶぜ。