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THINK ABOUT SOMETHING.

偉大な芸術家は火を奪う

以前にも書いたが、眠たい時に思考すると睡魔と闘っている感覚が味わえる。でも恣意に近いような浅い思考だとそうはならなくて、どこまでも潜っていくような深い思考をすると睡魔との闘争が際立ってくる(これは後に書く「坂の比喩」でもある)。


そしてその深い思考を続けていく内に、不発に終わることも当然在るが上手くいくと「睡魔を殺す瞬間」が訪れる。つまり、インスピレーションだ。


寝床で目を瞑りながら想像の世界を潜っている内に、不意にカッと目を見開いて「書く必然性」に襲われるような、眠気がストンと消滅するような「連続的な爆発」が来る。こういうインスピレーションの方を僕は信じる訳だ。


連続的なインスピレーションというのは少年が全存在を賭けて急坂を駆け上がるような、子供的行為だ。翻って突発的なインスピレーションというのは流離っている内に何かの坂を越えていたような、大人的行為だ。


要するに、同じ坂越えでも大人のそれは「熱」がない訳だ。その先の景色に必然性もなければ、心臓のドキドキもない。親も子供も相互に偶然扱いするような、精神的乖離の象徴という訳で、三島由紀夫のインスピレーションは多分こっちだろう。実力が在るからね。


割と陳腐な話だけど、養子との関係が上手くいかなくて実子との関係が上手くいくのは「産みの苦しみ」を経たかの違いだろう。そういうものがなければ親と子は共に偶然だし、親の一方的な愛(必然扱い)も成立せず、偶然同士が空回るだけ。


産みの苦しみは大袈裟としても、何かを守り抜いた結果としての、深淵で光り輝く逆説。全然知らんけど病理学的に言えば「闘う」というのは実に陰々滅々とした行為だが、暗がりから暗がりを渡り歩いたその淵で陰陽学的(これも知らん)に光と邂逅する行為。


全然説得力ないけど、これこそがインスピレーションの正確な構造だ。僕が考えるインスピレーションは「霊感」よりも「覚り」の方が近いから、それは無条件に獲得できるものではない、というのが今の僕の考え方です。そしてツイッターも、一つの条件という訳です。


少しだけ訂正しよう。歴史的に言うインスピレーションというのは「火の鎖」だが、芸術的に言うインスピレーションというのは「我が光」であり、即ち偉大な芸術家は「火を奪う」のである(ピカソのこの発言は好き)。