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ロジカルな言葉とイロジカルな言葉

言葉は大雑把に二分すると、ロジカルなものとイロジカルなものに分かれる。僕は性格の地の部分でイロジカルな言葉に偏ってるが、最終的に強いのはロジカルな言葉の方である。


少し強引だが、イロジカル=詩人的、ロジカル=文学者的と仮定して、詩人が一切余計なものを挟まず一つの描写に十ページ、文学者が一切余計なものを挟まず一つの描写に十ページ費やしたとしよう。この時どちらの描写に軍配が上がるかと言えば、僕は後者だと考えている。


詩は文学に比べて形が自由だから、基本的にハッタリには強いと言えるけど、本質の積み重ねから来る凄みとは無縁で、ドスの利いた言葉にはならない。逆に文学は形を守らないといけないから、瞬間最大値を煽ることはできないけど、言葉の正確性から来る一種の「連れ去り」には非常に強い訳だ。


「連れ去り」という言葉の意味は異化作用が近いが、普通に考えてこれは詩の方が向いているように思うだろう。でも仮に文字数が同一で、描写の濃度も同一で、才覚も同一であるならば、絶対に文学の方が見るもまばゆい新しい世界へと連れ去ってくれる。


逆に詩の連れ去りは詩で完結し、現実に反映できない。そこが胸が熱くなるかどうかの分岐点で、文学は幻では終わらせない。そこから火継ぎをするかどうかは受け手次第だが、浅いか深いかは横に置くとしても、確実に作家の火がそこに映し出される訳だ。


即ち火は逆説的に、ロジカルであるべきなのだ。パッションというのはイロジカルな内面の現象かもしれないが(これも微妙だが)、それが必ずしもイロジカルに受肉するとは限らないし、本当の凄まじさというのは、濃厚なロジックの積み重ね以外では在り得ないのだ。


神曲よりもカラマーゾフの兄弟の方が凄いと僕が思う理由は、最初から異化ないし聖別されたような派手な言葉(例えば宗教的言語)を使わずとも、日常の有り触れた素朴な言葉の集合でドスが利いている点に在る。


それはロジカルゆえに成立する話だが、イロジカル陣営は対等に渡り合う為に虚飾を取り入れなきゃいけない。逆にロジカルな描写においては言葉の優劣など関係なく、例えば華奢な言葉を精密時計の部品として置く時そこに正邪などなく、いかなる凡庸な言葉もロジックが深ければその中でドスが利いてくる。


そしてベタな話だがボーイミーツガールをイロジカルに達成しても、ロジカルに達成した話には感動で勝てっこない。ベルセルクは蝕で終わってたら神だった、とか偶に言われるけど、それはベルセルクの蝕までが非常にロジカルで最高峰のボーイミーツガールに達したからだ。


これだけ歴史が在るのだから、お話というのは題材が被ってナンボ。なのに訴求力が在るかないかに分かれるのは、結局ロジカルかイロジカルかという点に尽きる。同じことをやっているのに誰にも届かないのは、精密時計のようなロジックが宿っていないゆえなのだ。


まあその辺は、友達がよく言う北斗の拳とバキの差だろうなあ。外見で騙されがちだけど、本質的に優れているのは北斗の拳の方というね。