ロジックと詩のスパイラル
ある友達とロジックと詩について議論した。結局結論めいたものは出なかったけど、僕の意見はこうだ。
これは多分以前にも書いたけど、詩の最初の目的は「観念を腐らせないこと」だろう。現代詩は知らないけど、産まれたばかりの頃の詩の目的はそれだった筈で、観念に対し同義語を使い分ける必然性はそこから生じ、従って単純な詩の否定は文学的退化にしかならない訳だ。
でも詩には脆い側面も当然在って、詩それ自体で世界を突き動かす力には至らない。即ち八分のロジックを前提とした二分の頂の、詩とロジックの逆転現象によって初めて詩が絶頂足り得る訳で、その構造の最高峰は蝕までのベルセルクであり、蝕までの鷹の団である。
もしベルセルクが頂の二分(蝕)もロジカルに描こうとしていたら、それは人間深淵を描くというレベルには至らなかっただろうし、逆に二分の詩が全体化すると、それは友達の言うように言葉遊びになる。即ち逆説的だけど、詩はロジックによって生かされる代わりに、その頂では優劣を逆転させるのである。
だから僕は「ロジックも詩も両方要る」と思う訳だが、友達は「どちらか片方を取るならロジックを取る」と言った。これには僕も同意だけど、それは前提じゃない方を取ると成立しないからという単純な話。ボードレールみたいな言葉遊びならともかくね。
人間の揺らぎ、彷徨いなどを描く為にはロジックよりも詩の方が向いている。でもその曖昧さはロジックでギリギリまでフォーカスした先に朧に見えてくる、ロジックでは不可侵の聖域であり、それを単体で切り抜くと抽象画の名画には成り得るかもしれないが、想像的遊戯の域を出られないだろう。
ロジックはこの不可侵の聖域の呼び水で、詩はそこを満たす聖水だ。言い換えればロジックは連続的で能動的な天昇であり、詩はその爆発の待機で、詩がインスピレーションに対し受動的と一般に思われている根拠はここに在る訳だ。
最後に僕の結論としては、観念を腐らせない実践的な側面と、人間深淵を描く手法の妥当性とにおいて、詩は一生現役だと思う。射精(詩)のできないセックスが無為なように、あるいは前戯(ロジック)のないセックスが自慰と変わらないように、これらはお互いにお互いを導き合うものだと僕は思うよ。