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THINK ABOUT SOMETHING.

否定の美学

主に音楽で在りがちな話だが、どう足掻いたってクソ曲でしかないのに、それの否定の否定として「一曲でも多く楽しめた者勝ち」とか言い出す人。それ、絶対間違ってるよ。


一つでも多く取るという思想は、審美眼を鍛えることの放棄にしかならない。むしろ一つでも多く捨てることの方が難易度は高いし、何故なら取るというのが只の肯定なのに対し、捨てるというのは否定を意味するからで、それは結果的に一種の創造性を伴う訳だ。


即ち認めること(肯定)は屈することの前提であり、排すること(否定)は超えることの前提という訳で、過剰な否定は恐怖の裏返しでしかなく、論理のない批判も空回りにしかならないけど、妥当な否定だけは妥当に超克になるし、創造的行為にも繋がる。


そういう意味で全てを肯定するような人は、一生そこで停滞するし、これは一部の引き籠りの完璧主義的側面である、「誰からも嫌われたくない」という考え方にも通じるものが在り、即ち肯定だけで生きようとする人は絶対に、そこで成長をストップさせる。


社会生活を営む時点で何かを立てれば何かが下がるし、全てから好かれるなんていう事態は先ず起こり得ない。だから現実的には、一部嫌われることも含み込んで全体として幸せになるしかなく、その決心の手前で立ち止まる引き籠りは家の中で停滞している訳だ。


そういう意味では捨てるというのは家出の思想で、停滞の真逆だ。僕はあまり人のことは言えないが、要するに謙遜謙遜謙遜……ではダメだということで、そういう人はクソ作品しか造れないし、人としても最終的に必ずつまらなくなる。


結局世界を動かすのは「ロジカルな否定」だ。外から見た世界と中から見た世界の不一致は一生埋まらないと思うけど、その近似に迫って行くのは無限的行為で、アインシュタインの理論とてその比喩でしかない。


歴史的には世界描写の近似は既にその懐に到達している。つまり、いい線行ってるのだけど、だからと言って今の世界像を肯定できる程僕は楽天家じゃないし、ゆえにもっと色んなものをロジカルに否定していこうと思うのだ。