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THINK ABOUT SOMETHING.

哲学とは奥の細道の無限性である

哲学というのは要するに、広義なもの、万様なものを限界ギリギリまで狭義に絞る行為だと思う。


例えば自分。日本に住んでいるというよりは大阪に住んでいるという方が近いし、ネットしているというよりはツイートしているという方が近いし、そういう「狭さの総体」みたいなものが多分、最後に「本義」になる。


小説を書き始めて本当によく思うのは、この奥の細道(狭さへの道)というのは無限に開かれていて、仮にゼロという終わりが在ったとしてもそれまでの中間を細切れするのは無限に可能であり、そのゼロに向けられた永遠の絞り行為を「推敲」と言うのだと思う。


大きい方向に向かうというのはフォーカスを捨てるということ、リアリティーを失うということで、これを詩論と結び付けられたら詩人が可愛そうだ。ゼロに向かって永遠にフォーカスしていく所に生々しさが宿る訳だし、小説と詩の違いはその方法がロジカルかイロジカルかというだけの違いだ。


但し僕は大きい方向に向かうことを完全には否定しない。かと言ってそれが自由意志だとは全然思わないけど(むしろ真逆)、フォーカスの射程圏外でのダダとかシュールとかいうのは、ゼロに迫っていく自由意志、即ち天地創造の前哨戦としては機能するだろう。


ゼロというのは要は虚無のことだけど、隣にそれがなければ自由も在り得ない。そこから一寸でも刹那でも離れるとそれはもう「流転の領域」で、その源ではなく最果てに向かっていくのがダダとかシュールという訳だ。そう考えるとこれらは全然自由じゃないし、逆説的に創造性は低い。


但しまあ、カントが言うように物自体は永遠に認識できない。ゼロというのはプラトンで言う所のイデアな訳だけど、哲学者がどれだけ言葉を尽くしても「それ以上狭まらない壁」に途中でぶち当たる。


えらい恣意的な話だが、これこそがおそらくニヒリズムの根拠であり、しかしその壁の総体を描いて行く「神への関与」こそ芸術なんじゃないのか。神自体は永遠に認識できないけど、その岸に迫ろうとすることはできる筈で、その時ダダやシュールは「彼岸への波」という側面を併せ持つ。


ちょっと乱暴だけど、イデアへの進軍を放棄しているという一側面に限ればダダやシュールはニヒリズムの一種で、芸術的な悪だ。しかしその本質ゆえの渇きや疼きがうねりとなり、誰かの何かの原動力になるのなら、そこにニヒリズム全体の肯定の可能性が宿るのではないかと僕は直観したりする。


結局最初の論点からえらい離れてしまったが、要するに芸術家は狭さへの奥の細道をゆかねばならないし、哲学はそこに通じる小径として僕の場合は実に有効だった。今更芸術をするのに哲学を経由するというのは古臭いけど、裏道を探す時間は全て無為で、王道をゆく時間は全て有為だったと今になって思う。