BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

鋭利なチェック

うちの親を見ててつくづく思うのが、「勘が鋭い」と言われるその裏には膨大な「外し」が在って、外しの際には目立たないようにして当たりの時に猛威を振るうことで鋭さを際立たせてるということ。


いかに勘が鋭いと言われる人でも、毎回当たりだけをドンピシャで積み立てるなんてことは在り得ない。そう思われてる人が居たとしても、上述のカラクリで外しを隠し、相対的に鋭く見せてるだけ。そもそも当たりであれ外しであれ、そのチェックの回数が他人より膨大に多いというのも在る。


僕はガンジーじゃないが、生活設計の上で怒りの感情を捨ててしまった人間だ。もちろん例外は在る。在るけど、原則として怒りは最終手段で別の解決を探そうとする。これは僕のいい所なのかもしれないが、一つの人間の限界を示すものでもある。


一緒に居るだけで緊張するような、統率者的な人って居るだろう。あの人達は勘の例と同様チェックが激しく、その結果はアメかムチな訳だけど、僕はチェックが少ない上その結果はアメばかり(ムチは最終手段だから)なので、緊張なんて起こりようがない。


僕は勘においても統率においてもチェックが少ないが、その理由というのは多分、偽善でもいいから秩序を求めるというか、外したりムチしたりするのが性格的にどうしても抵抗が在るのだ。内面の調和が乱れるのを嫌うのは内向感覚型の特徴だからね。


かと言って当たりとアメだけを積み立てることもできない。前者は洞察力的な意味で、後者は全てが惰性になってしまうという意味で、できない。結果「チェックを減らす」という所に辿り着く訳だけど、今度は人間力が欠けてくる。完全にトレードオフな訳だ。


僕は人生にある程度鈍感を導入してるけど、そのバランス感覚は正直ダメダメ。もっと外しとムチを恐れずに、敏感にならなきゃいけない衝動に毎日駆られる。おそらく調和が崩れることへの耐性が低いからそういう帰結になるんだろう。


でもこれって「全てから好かれたい病」となんも変わらんな……。全てが当たり全てがアメなんていうのは少年漫画でしか成り立たないし、もっと人間としてリスクを取っていかなきゃいけないのかも。