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THINK ABOUT SOMETHING.

中庸から離れよう

二つの拮抗が在ってその中間に落とし所を求める、というのはよく在る話だ。例えば制服じゃない職場だからと言って身だしなみばかり気にし過ぎるなという考えと、逆に極端にKYな身だしなみでもそれはそれで恥ずかしいという考えが在って、誰もが「こんなもんだろ」という落とし所を探す訳だ。


前者が会社側の論理で、後者が社員の論理で、これは左右にスライドするパラメータみたいになってると思う。普段から服装を気にする人は後者の論理を立てるというか、利用するだろうし、それが癪に障るレベルまで行くと、今度は前者の論理が際立ってくる。


僕は純粋な完璧主義者は居ない、要するにパラメータの端まで振り切れる人は居ないと思うけど、どちらか一方が際立つレベルまで徹底するのが完璧主義者ということになる。彼等がハイバランスかどうかはともかく、その時点でどちらか片方を捨ててる訳で、これは一つの英断だ。


合理主義とか機能主義とか色々主義は在るけど、そういうイズムを一切持たない人間が、今度は縦の指標と横の指標で構成されるダイアグラムの中間(縦線と横線の重なる真ん中)付近をうろうろする。そういう人達は特別危険に晒されることもない代わりに、特別な幸福が待っているという訳でもない。


子供は我がままだから、パラメータの端まで振り切れた一点豪華主義から出発するけど、年齢を重ねるごとにどんどん丸くなって、中間主義とでも言うような堕落に陥っていく。全部に対応できるような、全部に隙を見せないような、ご都合主義に落ちぶれていく。


子供の頃は周りが足らずを補ってくれるけど、段々その補助輪もすり減っていき、気が付けば二輪だけで走っているような状態が、理想的な大人のなり方だろう。でもほとんどの場合これは成立しないと思う。補助輪がキレイにフェードアウトするとも限らないからね。


ほとんどの場合「段階が急に来る」から、そこでリスクの意味を知る。例えば中学から高校への変化はフェードインじゃなく、急に訪れる0か1だから、補助輪も急激にすり減ったり、あるいはいきなり取り外されたりする。そういう意味で大人への道がキレイに舗装されているというのは幻想だと思う。


そうやって急にコケまくる自転車生活が始まると、リスクを取ることを恐れてものすごく安全な「つまらない走り方」になっていく。この例えは少し変だけど、好きな人を守ろうと思ったら時には十字路をブレーキなしで突っ切らないといけないのに、そういう英断もしなくなってしまう。


極端な振り切れがバカげてるのは分かってるけど、それでも「人は何かを立てる為に何かを捨てなきゃいけない」と僕は思う。要は糸井重里氏の「中穴はクソ」ということなんだけど、全ての真ん中に常駐するのだけはもうやめようニャン。