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THINK ABOUT SOMETHING.

戦争と楽園は不可分なもの

家族愛と世界愛は同じようなものか、ということを考えてみた。家族は一時的に憎たらしい時期が在っても、結局同じ屋根の下で寝る人間だから、愛憎半ばで暮らさざるを得ない不可避性が在るけど、世界も一緒だと思う。


なんか例えがおかしいけど、仮に犯罪者になってしまっても見捨てちゃいけないのが家族だろう。例えば車で人をはねてしまったとして、それが赤の他人ならわざわざ擁護しようとは思わないけど、家族なら最後の最後まで守ってやるのが筋というか、客観性を失うぐらいが丁度いいというか、そういうもんだ。


この主観愛みたいな心理は別に犯したくもない犯罪を犯さなくたって、常に働いている。何度も言うけど、家族とは同じ屋根の下でずっと暮らさざるを得ないからだ。打算的かどうかは横に置いとくとして、お互いが最後の砦を守り合うような構造が家族には在ると思う。


その一線を超える、要するに最後の砦を自ら崩すとどうなるかというと、単純なことで、ありとあらゆる担保がなくなる。病気にしてもそうだし、犯罪にしてもそうだし、借金にしてもそう。ありとあらゆるトラブルが100%自分に降りかかってくるようになる。


それを避けるのが家族愛という帰結は少し悲しいけど、この心理が全体とは言わなくても家族愛の何分の一かは担っていると思う。紳助の例にならうと「好き−エゴ=家族愛」であり、また「エゴ<家族愛」という比重の状態が純愛だ。


家族愛に関してはこの純愛は大体成立すると思う。エゴというのはあくまで結果論であって、ほとんどの場合愛情の方が先立つからだ。そりゃどん底の家族とか逆に遺産問題のややこしい家族とかなら分からないけど、生涯を共にする以上自分の自我の一部みたいになるから、不可避的に好まざるを得ない訳だ。


前置きがえらく長くなったし、結論も淡泊なんだけど、世界は正直どうしようもないし、とても愛せるような対象じゃない。それでも人が世界を肯定し続けるのは、それが一生の伴侶であり、自我の客体だからだ。家族と一緒で主観愛を働かせざるを得ないからだ。


僕は汎神論者だから、スピノザアインシュタイン同様に世界=神という認識だけど、自己肯定と世界愛は不可分で、絶対に切り離せないものだと思う。自分も神の一部だし、神も自分の一部だし、極端に言えば総体愛か否か、言い換えれば世界を前進させるか停滞させるかという二択を強いられている訳だ。


停滞というのは穏健なのがニート、過激なのが自殺とかだけど、人が生きることを選び続ける限り、世界が徐々に秩序立っていく限り、世界愛は歴史と共に強固なものになっていく。そこには人間の弱くも素敵な輝きが在って、FF10で言う所のナギ節へと夢を繋げている訳だ。


そういうプラトニックな愛情の総意で僕等の住む世界は成り立っている。チープな言い方をすればそれが「善」であり、また「導」でもあり、先人達の燈してきたそんな火のリレーこそが「希望」なんだと僕は思う。大袈裟に言えば絶やしちゃいけないもの、守らなきゃいけないもの、きっとそういうもの。


少し飛躍するが、損得勘定はどんな局面でも結構強い。TPPなんかも最終的にはそれで決まっていくように思うし、だからと言って農家の人達が自己犠牲なんかし出たらそれはアホだ。合理主義のコミカルな帰結でしかないし、結局そこで隣人愛になる。全体よりも自分の周辺を愛する心理が働く。


そこで僕が思うのは単純に「それでいい」ということだ。世の中が綺麗に整理され、全部合理主義で動き出したらそんなの人の住む世界じゃない。だからニーチェの遠人愛なんて僕には全然説得力がないし、あれは浮世離れの発想だ。


隣人愛の集合が遠人愛になる、というのも一見筋が通っているようで矛盾だ。隣人愛というのはむしろ「閉ざされた愛情の形」であり、そういう小宇宙が地球上を何万と歩いている。神風にしたって恋人の元に帰れるのなら国よりも女を守った筈だし、これが永遠に戦争がなくならない超単純な図式だと思う。


全体が世界平和を望み始め、全体が合理主義に汲み取られたらそんなもの機械だ。国の為に死ぬ志願者が毎日出てくるような未来は、僕には一生かかっても想像できない。TPPの為に農家が自殺しても無感情で過ごすような社会は、永遠にやって来ない。


逆に言えばそれが戦争の根拠だし、エゴ(隣人愛)とロジック(遠人愛)の闘いが根底に在る訳。もし合理主義が完璧に機能したら戦争は確かになくなる。みーんな自分よりも国、世界を守るんだから、戦争になりそうな因子はロジックの要請で当たり前に自殺しなきゃならないからだ。


でもそんな社会が来る訳ない。楽園を目指す心理と戦争を起こす心理は相対するものではなく、不可分な裏表の心理だけど、エゴが在るから楽園を目指す訳だし、戦争も起こすし、逆にエゴを消しちゃうと人の住む世界じゃないし、楽園も戦争も一生やって来ない訳だ。


だから「楽園だけ立てる」というのは、土台無理な発想なのだ。かと言ってエゴを消した世界(管理社会の究極)の方を人が選ぶとも思えないし、戦争と楽園の共存した世界の方を選ぶのが「人間的」だと僕は思う。


エゴは大切だし、関係の密な隣人も大切だし、全体性の保障なんてみーんな捨てている。つまり、みーんな戦争を認めている。無意識的にね。僕は少しトランスヒューマニズムの気が在るけど、そういう意味で戦争は合理主義ではなくならないし、もっとSF的な、思想よりも科学的な方法が最後の拠点になる。


でもこれは全ての思想家の否定という単純な話ではない。仮にいきなり科学が世界を楽園にしても、そこに到る数式(思想)がなければすぐに破綻してしまう。なんかイメージしにくい比喩だけど、世界が2になって、1+1という過程を見失うと、2は暴走するからだ。


思想というのはあらゆる数式の「形」で、科学はその解を実現する「力」だ。これはものすごく言いにくい発言だが、非核化する為には最低でも一度は核を使わなきゃ、誰も実感が湧かない。それを肯定する気持ちは絶対にないが、発明と同時にそれを禁じる(数式なき解)なんて芸当は誰にもできない。


先見性の在る人間、例えば政治家がそれをした所で、前述のように1+1を知らない2は暴走する。誰も頭の中にあのきのこ雲が過らないのだから、当然だ。思想というのはそういう過ちを防ぐ歴史のアーカイブ化(数式化)であり、鮮明なフラッシュバックと少しのフラッシュフォワードを繋ぐ役目を持つ。


そういう意味では過去(バック)は偉大だ。例え一寸でも未来(フォワード)を垣間見ることができるし、歴史というのは人類の素晴らしい資産だ。そのアーカイブはいくら在っても事足りるということがなく、在れば在るほどいい。「類推」という行為にもう少し強度が在れば既に十分だとは思うんだけどね。


でも思想が歴史を前提にしているとなると、テレビやネットが在るこのご時世に、思想家が書く思想書への純粋思想批判が起こることにもなるだろう。最早クラシックだとね。かと言って民意が最前線の意識と一致する時代が来るとは到底思えないから、導としての思想の領域はまだ残っているとも思う。


大衆思想という言葉が在るかどうか知らないけど、それはジャーナリズムがやればいい。そして純粋思想の方は「何かを認識させる」という役目をジャーナリズムに譲ってしまって、それを入り口とした深淵への階段になればいい。


それすらもジャーナリズムに譲る時代が来れば、政治家と民衆の意識の差は大分埋まるだろうけど、夢物語だわな。石破茂が言ってたように消費税を上げるか否かを民意に問うなんて、絶対できないし、その辺の感覚が政治家と一致する時代は多分、一生来ないだろう。


結局一部の賢い人間が最先端に立って、ジャーナリズムがそれを翻訳するというのが現実的な落とし所だ。だから大衆思想と純粋思想は棲み分けできてると思うし、その隙間を埋めるのが今のネットの真価じゃないだろうか。