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THINK ABOUT SOMETHING.

決壊こそがドラマ

ツァラトゥストラカラマーゾフだと、どう考えても作品としてカラマーゾフの方が上位構造だ。ほとんど一人の人物が話を進めていくツァラトゥストラは、その構造上欺瞞や独善といった綻びが出てくるからだ。


バフチンが言うようなカーニバル文学は現実の近似だ。例えばある思想的態度を取った登場人物Aが居るとして、それ以降Aは原則行動原理をその思想に還元し続けなきゃならないけど、ここにBやCやDの思想が混ざればAに別の行動を取らせることは当たり前にできる。


逆にBやCやDが居ずAだけの場合、思想的転回がない限りは一貫性が重視される。要するにツァラトゥストラの場合、段々と自己思想にがんじがらめになっていく。三島は「柔軟性は妥協だ」と言ったけど、「完璧症は欺瞞だ」とも言い返せる訳で、次第に自らの独善性に呪われていき、最後は滅びてしまう。


三島の悲劇というのは対等の存在が皆無という悲劇だろう。だから三島の人生はカラマーゾフよりもツァラトゥストラの形式を取らざるを得なかった。しかも柔軟性は一方で妥協かもしれないが、他方で欺瞞を解除する役目もあるのに、それを導入しなかったら結末はもうバレバレじゃないか。


僕はベックの影響でバランスとか拮抗とかいう言葉が好きだけど、完璧症の一匹狼にはそれをエミュレーションする能力がない。坂口安吾は「堕落とは人間へ戻ってくるだけのことだ」と言ったけど、欺瞞を糸口とした人間回帰みたいなものが彼等の特徴として確実にある。


三島はそれを表面化せず、最後まで騙し切った見事な例だ。その点では尊敬するけど、「俺には無意識がない」という発言には同意できない。彼が早死にすることをコントロールしていたとは到底思えないし、あれは完璧症――それも潔癖で一途な――の要請でそうなっただけだと僕は思う。


三島は時に人間味がないけれど、それはつまりこういうことなのだ。あるがままから最も遠い所で地に臥し、人間に還って来ないまま死んでいった。坂口は「義士も聖女も堕落する」と続けるけど、三島クラスの実力を以ってしても義士を演じるのに20年強が限界となれば、みんな堕落するしかないじゃんか。


ボロクソに言われる堕落があるのに対し、崇高な堕落というものがあってもいいと僕は思う。ドラマが即肯定に結び付く訳じゃないけど、堕落を肯定するいくつかの条件の一条件として、ドラマチックな堕落というのは欠かせないし、そしてそのドラマは徹底的に合理化された所の決壊作用で生じるものなのだ。


寺山は最初からその決壊の渦に入っていった。だからドラマには弱かった。小説読んでないけど、逆に三島は寺山よりは遥かにドラマメーカーだろう。「完全な合理性からはドラマは生まれない」という寺山の発言はドラマコンプレックスでしかないし、三島はそこの駆け引きを心得ていた訳。


そういう意味では寺山は純粋詩人だけど、プレイボーイなのは三島の方で、ギリギリまで快を溜めて決壊する作用の近似、即ち散文の世界に生きてた訳。韻文は溜めるまでもなく最速で決壊する文学だし、僕はこれを思想的踏み台にしてきた訳。


今の自分は寺山なしには語れないけど、あそこに遡る形で戻ろうとは思わない。今度あそこに戻る時はもっと未来的な、昇華的な回帰として戻らなきゃならないし、それが何度かここでつぶやいている、芸術的フリーセックスの領域に他ならないのだ。


僕等は宿命でしか自由になれない。それは神との調和なんかじゃなくむしろカオティックなもので、聖なる無限と言い換えてもいいその光は地上的な無限を戒める。そして輝きを淵とすることを諦めさせない力が歴史の真価だから、神に与すること、道を残すことを僕は第一義にするよ。


つまり横溢はドラマなんかじゃない。決壊こそがドラマなんだ。