あの素晴らしい躁をもう一度
聖母被昇天という絵画を見た時に「我昇天」という言葉を思い浮かんだけど、今度は自堕落(横溢)に対する言葉として「被堕落(決壊)」という言葉を使ってみよう。結構いろんなものを照らし得る強度を持っていると思うし、自動書記の可能性を押し広げる光になれれば言うことなし。
僕が言葉を光だと思った瞬間は、内的独創性という言葉で一冊の青臭い思想書を造った時のことだ。僕は子供の頃から本をほとんど読まないし、完読した本は正直一桁な上、どれも全く覚えていない。だったら一つの強迫観念に襲われるのは当たり前のことで、要するに、結果的な模倣が何より怖かった。
つまり無知から来るアイディアの重複が、無知ゆえに自分でチェックできなかった訳。何を造っても何かに被っている恐怖感が拭えなかったし、それが僕の創作の大半が未完で終わった根拠だけど、この青臭い思想書を契機に一つの突破口を見出した訳。
今考えたらなんちゅう脆い理論だと思うけど、要するに、既知から来る重複は自分を根拠としていないけど、無知から来る重複は自分を根拠としているから、結果的に何かの模倣になっていたとしても、そのまま自分を貫き通さなければならず、そこで外的に独創的かどうかは問題じゃない、と。
更に続けると外的に独創的じゃなく、模倣だと判明した時に、当然取られる選択肢は内的独創性を撤回することだけど、僕は逆にそこで内的独創性を貫かず、外的に独創的に見せ掛けるのは作家性の欺瞞だ、とも考えた。
厳密には人口の数だけ性格はある訳だけど、ユングの類型論で大雑把に考えるなら八種類の性格に分類できる。その中で僕は内向感覚型だけど、国自体を性格類型に還元すると日本は内向感覚型的な国だ。宮本茂とか、宮崎駿とか、宮沢賢治とか、夢想家的なエネルギーが肯定的に廻っている国だ。
その中で僕はある種の「やり尽くされた感」を感じる訳。今から僕がスーパーマリオを超えるゲームを造るとか、ジブリを超えるスタジオを立ち上げるとか、雨ニモマケズ風ニモマケズ以上のアイコンになるとか、どう足掻いたって無理な話だ。
だからと言ってその外側にはみ出そうとすればそれはもう内向感覚型でもなんでもない訳。だから先人、特に同類型の先人の模倣の内側でも構わないから、自分を根拠とした独創性を貫くのが内的独創性であり、自分の類型を超えようとしちゃいけないのだ。
そう心に決めた時に創作のフットワークが一気に軽くなって、たかが一語の言葉でも人生を変えるぐらいの底力があることを思い知った。いわゆる「言霊」というやつだ。被堕落という言葉は文学の中でしか使えそうにないけど、今考えてる問題を氷解する力はありそうだと直観している。
だから「あの素晴らしい躁病よ、もう一度やって来ーい!」と叫びたい所だけど、ここまで書いといて堕天という言葉を正確に言い換えただけのような気がする音夢音夢であった……もう寝る。