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THINK ABOUT SOMETHING.

ニートの病理学

ニートが一種の癖なら同性愛も(性)癖だから、今は否定的に見られてても将来的に見直される時代が来るかもしれない。同性愛と同列に語るのは問題かもしれないけど、単純なニート批判は単純な同性愛差別とあんまり変わらない気がする。


甘えから来るニートも居るけどメンタル的にどうしてもっていうニートも居るし、問題は働くか働かないかの二択で考えることだ。


働けばそりゃしんどい、働かなければめっちゃ気楽なもんで、ニートは働けない理由を立てて気楽な方に行くけど、この中間に落とし所がなくて大袈裟に言えば、天国(働かない)か地獄(働く)かの両極端なのが問題な訳。


その中間的な落とし所がもしあるとすれば、普通に仕事してる人に疎まれてもないし偏見も多少なくなると思う。例えば労働時間が普通の半分でもいいから働きさえすれば、「癖(メンタル)の問題」と割り切れる人も出てくるんじゃないかな。


要は「しんどさの共有」みたいなものがないから、ニートは無条件に否定される対象になり得る訳で、人の二倍メンタルが弱いなら労働時間は1/2、三倍なら1/3という感じで、しんどさの量が一般の人と平均的に一致すれば問題ないと思う。ちょっと夢物語っぽい話ではあるけど。


もちろんそこでしんどくもないのにしんどいと偽装する人も出てくるし、仮に人一倍しんどいのが本当でも一般の人は理解できないかもしれない。


だからもし「しんどさの一致」みたいなシステムができたとしても、偽装者と無理解者が居る限りニートへの偏見はどうしても残るだろうし、また偽装者の存在が無理解者を増やす原因にもなっている訳だ。


そういう意味では無理解者はまあ仕方ないとして、偽装者は問題だ。ニートに限らず引きこもりやメンヘラへの偏見が彼等を自殺に追い込むなら、偏見の温床でもある偽装者が彼等を自殺に追い込んでると見ることもできる。


偽装者がゼロなら偏見も大分なくなるだろうし、結果自殺も大分減る筈で、要するに単に楽したいとか、家で遊んでたいとか、そういう甘えから来るニートは批判されて然るべきだとは思うね。


でも、これも結局半々の問題ではあるけどね。本物と言うと表現がおかしいけど、そういうニートもメンタル的な理由が半分、甘えたい気持ちが半分というのが実際の所だろう。


そこで甘えたい気持ちがほとんど、実は全然働けるというのが悪玉のニートで、善玉のニートもメンタルが安定してきてそういう心理状態になれば悪玉になる。この波打際みたいな所を行ったり来たりしてるニートが、一番多い筈。善玉になったり悪玉になったりを繰り返す人、それが多分本物だろう。


そこで喝を入れるのは周囲の人間じゃなく、本人の「気付き」に他ならない。分かってることを当たり前の言い方で言っても彼には全く響かないし、本人の外から啓発が起こるのではなく、本人の内(自覚)から啓発は起きる。


でもこの自覚は自然現象みたいなもので、強引に起こせるものではない。吉本隆明は「とことん引きこもれ」と言ってるけど、それは自然現象を強引に起こすな、ということの言い換えなのかもしれない。


僕も長い間ニートをやってたけど、家族は半ば諦めててそれが逆に助かった。つまり自分自身と問答できる時間がすごく長かった。周りにうるさく言われない環境だったから、決して強引にではなく、自然と自分の中で気付きが起こせる状況だった訳だ。


でもまあ、ほったらかしにされるとそのまま一生ニート、という人も居る。あくまで善玉と悪玉の行ったり来たりを繰り返すのが前提としてある訳で、それがなければ一生ニートで遊んでしまうことにもなりかねない。


表現がおかしいけど、そういう意味では社会の偏見や蔑視も生きてくるし、「見えないプレッシャー」はやはりあるべきなのかもしれない。


社会的孤立から社会参加への促進、そこで葛藤しているニートは本物だ。でもニートからの脱出と絶望は紙一重だから、プレッシャーは程々に。逆に本物じゃないニートに関しては徹底的に叩いてもいいかもしれないね。


仲間割れというか、それ以前に仲間じゃないんだけど、彼等は本物のニートやメンヘラを追い込む温床になってる訳だから、そういう人達に関しては無条件という訳じゃないけど、僕は批判するね。問題の本質は「闘ってるか否か」、そこだと思うよ。