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THINK ABOUT SOMETHING.

ディレクションの何たるか

ルーチンワークの外側で活動してる人なら分かると思うけど、論文でも、創作でも、試合でも、特攻して初めて見えてくる境地というのがある。いわゆる「偶然性の組織化」というやつだ。


初めから全体像が見えてしまってる創作というのは、基本的につまらない。もちろん厳密に考えればそんな作品はあり得ないんだけど、必然性で全体を貫く創作というのは良くて流行、悪くて模倣にしかならない。


で、偶然性の組織化によって全体性を保障しなきゃならないのが、ディレクターだ。つまり、ディレクションというのはリアルタイムで機転が利かなきゃ話にならないし、その機転の根拠が単に「このジャンルが好きだから」という程度じゃ成り立たない。


もしそれだけが機転を利かせられる根拠なのだとしたら、そのディレクションは「誰にでもできる必然性」に落とし込まれるだけ。何度も言うけど良くて流行、悪くて模倣という所に落ち着く訳で、そういうのは厳密にはディレクションとは言わないだろう。


表現がクリエイションまで行くと大袈裟だけど、ディレクションというのは創造と模倣という振れ幅の、創造側に振られた行為でなければ話にならない。言い換えれば必然の体現者ではなく、偶然の魔術師にならなきゃいけない訳だ。


その為にどうあるべきか、なんてことは僕には分からないけど、少なくとも「好き」であることは単なる前提で、帰結ではない。その上で各々の独自性や固有性といったものが積み立てられて、それぞれの視界にズレが生じてくる訳だ。


僕等は「一つを選択する側」としては、大体似たり寄ったりだ。これは極端な例だけど、ピーマンとステーキなら、みんなステーキを選ぶだろう。でも二つ三つを選択するとなると、その組み合わせは全くと言っていいほど変わってくる。それこそディアブロ3の膨大なビルドみたいにね。


そこんところのズレで勝負するのが、本来のディレクターの形だ。でも「好き」であることを機転ないし采配の根拠とした場合、絶妙の選択を組み合わせた総合力ではなく、一つ一つを無難に卒なく選択するだけに終わってしまう。要するに「木を見て森を見ず」で、一時的なノイズを許容しなくなる。


そしてこれは自分の持論じゃないけど、ズレはあらゆる方向に文化を生む。例えば日本とアメリカと中国ではそれぞれ文化が全く違うのに、それぞれがそれぞれに輝くことを成立させている。


つまり、ズレがその最終的な境地で普遍性を獲得する訳だから、その手前でどれだけ普遍性を煽っても、それは普遍化と平均化を同じ意味に錯覚してるだけ。言わば奥深い視界を持たない、鋭い見解を持たないなあなあの層は、正直ディレクションには向いてない訳だ。


この場合における平均化というのは前例主義、普遍化というのは前衛主義に置き換えられるけど、後者になろうと思えば少なくともなあなあから抜け出さなきゃならない。そしてその外側にあるノイズやジャンクを積極的に導入し、それを黄金に変える錬金術師的な才能を磨かなきゃならない。


そういう意味ではカルトも中々いいもんだ。あれは芸術的色盲から抜け出す為の泥沼の戦場だからね。綺麗なものだけで総柄を成すような芸術家は、そこから成り上がった者には勝ち目がないし、しかしカルトがゴールという訳でもない。


人生においても、芸術においても、清濁併せ呑んだ人間が最後の最後には強いし、生き残る。そういう人間にディレクションさせないと今のスクウェアみたいになっちゃうし、今のFFは綺麗ものだけで構成されたおままごとにしか見えない訳だ。


そこにエロさを感じられないのは、一種の合理主義が働いているからだ。ノイズはノイズ、ジャンクはジャンクというものすごく浅はかな固定観念の上に成り立つ、クリーンアート。要するに清濁を切り離しちゃった訳で、その時点で現実の近似とは言えなくなるし、嘘くさくなる。


結局の所具体的な結論は出せないけど、曖昧な言い方でいいのであれば、好きな気持ちは選択の精度には関わっても、全体性の保障には関わらないから、ディレクターは精神の特殊な人間ないし内と外で乖離のある人間がやるべき、というのが僕の考えだ。


外なる常識に属するのも大切だけど、内なる非常識に属するのも大切だ。この両者の乖離が大きければ大きいほど視界のズレに繋がるし、完全に開き直ることができればそれは「芸術家」と呼ばれ、同時にそこから固有性と普遍性が同化し始めるのである。