常識のやらず嫌い
僕が重度のメンヘラから軽度のメンヘラに回復する過程で実感したのは、僕等はほとんどの常識を「やらず嫌い」しているということだ。
例えば引きこもりは太陽に当たれとか、外で活動しろとか、早寝早起きでリズムを造れとか、割とよく言われがちだけど、どれもほとんどの引きこもりは「そんなの無駄だ」で終わってしまうだろう。昔から伝統的に言われてることには最低限の裏付けはある筈なのに、だ。
もちろんその裏付けは見えていて、敢えてそれを外してるんだろうけど、この固定観念と現実効果との間に、実は結構な開きがある。全てが常識で片付くとは思わないけど、意外と大多数にその効果は表れるほど、世界は整っている。
要するに常識で世界の大半はできているから、そこに乗っかればマジョリティーの恩恵を受けられるという訳だ。もちろんそこで病理的な恩恵、例えば芸術性、躁的な集中力などは葬ることになるけど、それが実質を伴う可能性に賭ける人はほとんどの場合、徒労に終わる。
もしかしたらそこんところの夢想が常識を拒否してるのかもしれないけど、「(それまでの)やり損じ」が確定する頃に「(これからの)やらず嫌い」を見つめなおす。要するに、今までやらず嫌いだったものを選択肢に含め始める訳だ。
しかしこの構造が分かった時点でやらず嫌いにショートカットできる、というのは空論だ。前提のない帰結というのは数式の解けた解のようなもので、参照するものを欠いたそれはどこにでも転がっていく。だからこのモラトリアム的な期間を家族はじっと耐えるしかないし、やいやい言う訳にはいかないのだ。
前にもつぶやいた通り、外からの啓蒙というのは基本的に、起こらない。即ち自分と他者が問答するのではなく、自分と自分が問答して初めて根掘り葉掘り深めていける。自分の究極なんて自分にしか分からないし、そこに他者が導いていくなんてのは絶対に傲慢だ。
でもこれは想像以上に神経をすり減らすから、待たなきゃ仕方ないのだ。家庭の事情でそんなこと言ってられない、という意見ももちろん分かる。分かるけど、先に述べた傲慢さが出た時点で切れられるのは仕方ないし、それは決して逆切れとは言わないだろう。
つまり人の傷口を大雑把に消毒するようなもので、表面的な筋は通ってても「無配慮」なのだ。但し何度も言うように、その人間が病理的にではなく、建前を立てることで一切上を向かなくなったら、そこはガチンコでぶつからなきゃいけないと思う。
沈んだり沈んだり沈んだりして時たま浮かぶ、程度なら全然いいけど、沈みっ放しを万歳して満喫するような性根は、すぐにでも叩き直した方がいい。それはもう完全な堕落でしかないから、今度は向こうが全くの無配慮ということになる。
要するにそこは切れていいし、身内ならその問題と向き合わなきゃいけないだろう。でもそこで傲慢さが出る所まで行くとそれはそれで只の「喧嘩」になる。親と子じゃなくなる訳で、そこんところのさじ加減が本当に難しい。
だから結論としては、浮かぶ為の努力の程度で、家族とその人間との押し引きが決まる。無配慮(傲慢)と無配慮(堕落)がぶつかり合うようでは家族でもなんでもないと思うし、お互いが配慮と配慮で統合されるWIN-WINを理想として、浮き沈みを下支えし続ける、それがナイスな親子関係だ。
ちなみに僕は三島のように、太宰治が乾布摩擦をしてれば病気が快方に傾いていたみたいな、短絡的な考えは全然持っていない。厳密にはこれは発言がミスってるというより、対象をミスってるという方が正確で、太宰の沈みっ放しは病理的なものだろう。
要するに、彼は性根を叩き直すような相手じゃない。この発言はもっと根の腐った、底の底で遊びほうけてる人間に言うべき言葉であって、そこんところのズレを見る限り、三島は精神病の解釈についてどこか抜けてるなーといつも思う。