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THINK ABOUT SOMETHING.

一回性という名の出逢い

少なくともツイッターは僕の場合、偶然性の組織化=ディレクションでやってるつもりだ。明日のツイートはどうなるか分からないし、明後日のツイートなら更にもっと分からないし、そしてツイッターを始めた初日から考えれば、今の自分は想像以上にロジカルになっている訳だ。


ディレクションというのは自分自身の視差による、二つ三つの全体性の保障だ。さっき「この視差を偶然性と定義すればいろんなものの辻褄が合わないか」と閃いたんだけど、自己究極から見渡す神的な視界を偶然性と定義するのは、少し冒険になる可能性もある。


人間は同じ遺伝子で何度生まれ直しても、昇り詰めるだけの余裕があるのなら、原則として同じような人格、即ち同様の自己究極に収束するというのが僕のイメージだ。簡単に言えばユングの類型論に還元されるというお話で、決定論まで厳密ではない。


そういう意味では自己究極というのは明らかに内的な必然性だけど、その到達から来る視差が偶然的であるというのは、よく考えれば別に矛盾しないかもしれない。つまり内的必然性に紐付けられた一瞬一瞬の一回性、それは内外を問わず偶然的であり、そして瞬く間に内的必然性に回収(組織化)される訳だ。


要するに、自己究極とそこから来る視差とを、同一視してはいけないのだ。それは想像力で旅をする者の、地球に取り残された肉体と異界で戯れている魂とを同次元で語るようなもので、実態は地球は必然的に構成されていても、異界は偶然性で揺れているのである。


面白いのが、偶然性が即座に視差の差に繋がる訳ではないということ。肉体が仮に偶然的に構成されている場合、要するに自己究極の途に就いていない場合、そこからの自由は浅田彰が言うようにどれも似たり寄ったりになる。変な言葉を造語しても構わないのなら、純粋偶然性であり、偶然の垂れ流しである。


逆に肉体が必然的に構成されている場合、そこからの自由は必然性に比例した独自の視差に繋がる。即ち「我」という必然を参照することで自由が、視差が輝くのであり、翻って参照するものを欠いた自由は逆説的に、垂れ流しになるだけなのだ。


これこそが「横溢」と「決壊」の違いだ。即ち偶然から偶然へ転がっていくのが横溢であり、必然が偶然をディレクションするのが決壊であり、言わば一瞬一瞬の一回性が再現性に落ちぶれてしまうのか、あるいは最後の最後まで一回性を守り抜くのか、その違いである。


なんとなく最初に言いたかったことを忘れてしまったけど、要は流転に逆らった自転の歴史がそのまま視差の歴史に繋がり、自意識への途となる。そしてそこから来る視差は自分から生じているのだから、組織化は容易いし、つまりディレクションする対象は世界のようであって、結局は自分自身なのだ。


芸術が自己救済を超えたことなどありゃしないし、しかしそれが傲慢だとか不純だとも思わない。世界性を外向するのが芸能で、逆に内向するのが芸術なのだとすれば、世界を流転させるのはスターでも、世界を書き換えるのはアーティストでしかあり得ないからね。


一瞬一瞬の断絶と、一瞬一瞬の連環のタイムラグを抑えるのが、自己神話化の要点だ。極端に言えば僕のツイッター歴を一瞬に折り畳むぐらいの芸当ができれば、僕も天才になっていただろうし、その聖なるアドリブの権利は時間が無限にあるのならば、誰でも必ず行使できるのである。