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THINK ABOUT SOMETHING.

一回性という名の出逢い Pt.2

昨日つぶやいた一回性というのは、出逢いのことであり、純粋偶然性というのは、すれ違いのことである。内的必然性の紐が解かれた状態の自由は、何にも出逢わないし、逆に我に紐付けられた自由は、偶然性という出逢いを呼び込む。


これは赤子の頃の自分と今の自分を比較すれば分かりやすい。赤子は自由を獲得したとしてもその視界は我に根差さず、剥き出しで世界を見ようとするから、動物が見るテレビのように記号的で、同様のリアクションに落ちぶれていく。要は他者とのズレがなく、在るがままを在るがままに素通りしちゃう訳だ。


翻って今の自分が自由に動いた時、その視界は固有の我に根差すから、万有(アンジッヒ)に還元されない固有の意義(パララックス)をあらゆるものに生起させる。つまり寺山は「退屈というのは病気だ」と言ったけど、そこにはあらゆるものを無条件に消費したが故の膨大なすれ違いが眠っている訳だ。


このアンジッヒとパララックスの最大公約数が芸術の限界であり、それを僕は「純粋認識批判の壁画」と呼んでいるけど、その壁画の総体こそが歴史というものの徴であり、人と神の臨界でもある。少し乱暴な言い方をすれば生と死の幽明境であり、そこでは虚無のオーケストラが鳴り続けているのだ。


人間実存のギリギリ、幽明境の淵の淵で虚無に還元されず戯れることを、僕はアートと呼ぶ。つまり神の真の認識は虚無の中にある訳だけど、それを生前に模写しようとする崖っぷちの賭博こそが芸術の本性であり、その時に生じる各々のズレを視差と呼び、あるいは出逢いと呼ぶのである。


単純な子供帰りというのは「一切に出逢わないこと」を意味するけど、芸術的な子供帰りというのは視差(出逢い)によって「神から我を取り戻す闘い」のことを指す。博識が強い根拠はここにあって、彼等は目まぐるしい出逢いの渦中に居る訳だから、永劫回帰的な我を何度でもフラッシュバックできる訳だ。


そう考えると知はやはり、自己究極を占う人類普遍の預言者だ。僕は決して博識じゃないけど、出逢いの特異点というか、集積場のような所ばかりを渡り歩いてきたので、割とスマートに自分を見つけれた気がするし、そこまで来れたら後は自分を楽しむだけだろう。


服装一つを取っても出逢いだし、振る舞い一つを取っても出逢いである。そういう出逢いを繰り返した無限の彼方に我があるのであって、最終論的には我は永遠の幻想に他ならない。即ち我にもアンジッヒがあり、パララックスの終着はドッペルゲンガーの如き「死」で幕を閉じる。


そのギリギリの手前で聖なる忘我を楽しむのが、芸術家であり、幻視者であり、革命家なのである。メンヘラをごく単純に肯定する訳じゃないけど、そういう意味で精神の瀕死を体験した彼等が芸術気質である、というのは当たり前のことなのだ。