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THINK ABOUT SOMETHING.

罹病という名の輪廻

一つの認識の変化が全体を変容させることってあると思う。これは精神病の一形態でもあるし、僕の場合それで精神を病んだのが最近になって分かった。でも認識の変容が前進足り得ても、後退になることは根本的に起こらないんじゃないか、とも同時に思った。


例えば強迫観念症。「この状況ではこうしなければならない」というのは、大体の場合当たっている。問題はそれを分かりながらもできないという所にあるのであって、認識自体は正常な筈だし、そう思っていなかった以前の状態の方が認識的には遅れている。


ドラクエじゃないけど、パラメータって原則増えることはあっても減ることはない。認識もそんな感じで、物の見方でも事の解釈でも、痴呆とかにならない限り経験値が上積みされていく。例えば政治に対して面白い意見が言えてたのに、翌日言えなくなったとかは、あり得ないし、でも逆はあり得る訳だ。


精神病が全て認識の変化に根差すとは思わないけど、仮にそういう病の形態があるとしよう。僕がそうだと思うんだけど、原因となった、変化してしまった根本認識に対し取ろうとする道は、大別して以前の認識状態に戻るか、新しい認識状態に到達するか、この二択になると思う。


僕は当初以前の認識状態に戻ることが病気からの脱却だと思ってたけど、ここまでにつぶやいた内容と照らし合わせるとそれは後退を意味するから、原理的にできない。経験値はノイズも含めて上積み式だからだ。だから病気を一種の変容=前進のサインだと思って、新しい認識状態に到達するのが妥当な訳。


先の強迫観念症の例で考えると、「この状況ではこうしなければならない」までは固定でもいい。それを崩して後戻りするよりは、その続きに「でもこれでもいいかもしれない」というのを、上積みしていけばいい。それができると強迫観念症に罹っていない人=固定観念の人より、その状況に対し強くなれる。


闘病にはネガティブなイメージばかりが付き纏うけど、変容が後退の意味を持つことはあり得ないし、変容は前進の意味でしかあり得ない。それに気付ければ観念は新しい状態に推敲されるし、闘病から遡行するということは固定観念で止まろうとする行為だということを初めに知るべきだと思う。


今日のツイートはある意味危ういけど、ある意味救いの要素があると思う。精神を条件次第で縮んだり膨らんだりするものと捉えるよりは、無条件に上積みされていく構造を信じた方が、幸せになれると思うからだ。だから僕も「今ならできる > 昔ならできる」の数式(肉体は逆)を崩さないようにしよう。


肉体は過去に向かって完成されていくけど、精神は未来に向かって完成されていく。そういう肉体にとっての「昔ならできた」のピークと、精神にとっての「今ならできる」のピークの丁度中間期、それが最も脂の乗った全盛期であって、それ以前以後はシーソーみたいな感じになってるんじゃないのかな。