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THINK ABOUT SOMETHING.

その名前、絶対につき

希少性と美的普遍化の間には一定の因果関係がある。これは全く新しくない意見だけど、希少性は相対的な価値観を煽り、本来普遍性足り得ないようなものまでも、普遍化される訳だ。


例えば松茸なんか、本質的に美味いものではない。毎日食べれたら誰も興味が湧かないレベルの食材だし、それが美的普遍化されてる根拠というのは、旬の物だからだろう。


希少性は外から見れば相対的に鑑賞されるけど、希少性それ自体は絶対的だと思う。そして僕は芸術的な絶対者をオリジナルカラーと呼んでるけど、これは人類分の一の絶対色域のようなものを指し、その時点で希少性は保障される。


ということは普遍性も保障される。超小規模な民族とかじゃない限り、一国の人口は膨大で、彼等の絶対色域は相対的に鑑賞され、絶対的な名前が付与され、その他全体を普遍性に巻き込む。即ち価値は相対的でも名前は絶対的で、つまり唯一的で、ゆえに普遍的なのだ。


唯一性と普遍性というのはほとんど同じもので、例えば「好きな映画」という質問だと唯一性に還元されないが、科学の公理とか数学の問題とかは、「1+1=2」という感じでみんなが同じ観念を唯一的に共有する。従って希少性の究極が普遍性に通じるという逆説は、矛盾しない訳だ。


自分に唯一の名前を付与するのが芸術の目標であり、それは自らの希少性を究極させていった所に生起するもの。但しそれが相対的な価値観に適うかと言われれば、神頼みかもしれないなあ。例えばそれが地味な茶色でしかない可能性だってある訳だし。


但しその究極の所に以前述べた「善」でしか踏み入れられないのなら、世界の第一義は善(これは時代の新旧を考えれば分かりやすい)ゆえに、誰もが相互容認する仕組みはあるだろう。地味な色は悪に集まるというか、鮮やかなものだけが善というかね。


だから僕は意志の源流を信じる。名前を付けるまでもないレベルには留まりたくないし、創作者一人一人は絶対のメタファーでなければならない。そういう唯一観を総合していった所に芸術の意義が生じるのであって、ゆえに純粋芸術は批判されて然るべきなのだ。