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THINK ABOUT SOMETHING.

dreams come true

ないものを求めるのも、隙間を求めるのも、独創性としてなんか違う。例えばアパレルで「ジーンズを超えるアイテムを造ろう」という企画があるとすれば、それは馬鹿げている。完全にないものを求める発想で、その縮図が隙間を求める発想で、こっちは現実的だけど面白さはあんまりない。


後者が既に需要が見込める可視的(あるいは特権的)隙間とすれば、前者は需要そのものを造る不可視的隙間なので、既に企画として倒れている。客観的なものであれ個人的なものであれ需要の中からしか形は見えてこないし、独創性は個人主義の結果論としてしか成立し得ない。


要するに、可視的なのに不可視なもの=個人的なものが、時代と合致すればそれが独創性になる。同じ人間である以上価値観は似通っているという前提が先ずあって、しかし人生は千差万別であるという差異が次にあって、この唯一的なものと普遍的なものを紐付ける行為が、芸術な訳だ。


そういう視点で見ると宮本茂須田剛一より独創的だし、須田ゲーは唯一的なものが正直ヌルい気がする。だから普遍性まで届かない。対談から察する限りでは宮本茂の方が広く浅くだから、唯一性の種類によって普遍性に昇華しやすいしにくいの相性はあるかもだけど。


普遍性を初めから求めてない、という反論はあるかもだけど、僕は唯一的なものは最終的に普遍的にならざるを得ないという考えだから、それは詰めが甘いということの自白か、唯一性自体のヌルさの証明か、どちらかでしかない。直観で答えるなら、宮本茂須田剛一の差は詰めの甘さのような気はするけど。


この「詰める」というのは自分からですらぼんやりとしている唯一性を、誰の目にも明らかな形で明確化するということ。例えば僕は「どんな料理が一番好きか」という問いに答えられないけど、ぼんやりとしたイメージは存在するし、それを完全に写実できればそれは誰からも愛される、というのが僕の信仰。


僕はよくこれを自慰で例えて考えるんだけど、理想の性的妄想に辿り着くまでの間、自慰は小回りが利く。ところが漫画家とかゲームクリエイターとかいう職種は、大きなお金が動く共同のクリエイションだから、「詰める」という行為が事実上特権的なものになる。つまり、早熟だけが優遇される業界な訳だ。


その点文筆業はいい。自慰と同じぐらい小回りが利くからだ。十年もあれば理想の文学的観念を写実し始めれるし、二十年もあればそれも完成できるだろう。こういう芸術は一回性のものかもしれないけど、一点豪華主義は創作を普遍化し、そこからどうとでも立ち回れるというのが僕の考え。


だからぼんやりとしたものが明確化するのを、諦めてはいけないし、このぼんやりとしたもの=夢と定義するなら、dreams come trueも嘘ではないだろう。楽園は自ずと宿しているものだし、それが僕の場合は「輝く因踏み輝く果成れ」だったんだと思う。