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THINK ABOUT SOMETHING.

論理を終わらせるもの

ゲームなんかは既存の素材を当てはめていくというより(もちろんそれもあるんだけど)、当てはめようとするパーツそれ自体が既に創造的=複合的だから、自分の考える創作論は破綻しない。但し小説なんかだと煮詰まった時、それをたった一語の言葉が打破することは一応ある。


でもその程度の打破の仕方を繰り返していく小説は、そもそも問題設定がかなりしょぼい可能性が高い。複合的だからこそ予想外になり得る訳で、単一的なもので新鮮さを感じることは、中々ないと思う。


例えばキャッチコピーで「おとなもこどもも、おねーさんも」というのがあるけど、これは「おとなもこどもも」まで考えれば「後一語を」と考えることは確かにできる。但し僕はこのコピーはかなり好きだけど、これは「ゲームソフトとしてキムタクのCMで流れた」ということを勘案して斬新だった訳だ。


このコピーはまだいいとして、他にも糸井重里絡みでモノポリーの「天使と悪魔が徹夜する!」があるけど、こっちは本人はかなり好きみたいだが、僕は全然好きじゃない。「上手く言うだけのコピー」というのは遅かれ早かれ「誰かが同じことを言う」と思うからだ。


例えばSFというジャンルができた時点でタイムマシンという概念ができるのは必然的で、仮にタイムマシンを思い付いた人間Aが居なくても、別の人間BやCやDが代わりに思い付くのは間違いない。要するに、「その人間の固有のもの」という感じがしないのだ。誰かが同じことをやる時点でね。


その人間の固有のものというのは、絶対に複合的だと僕は思う。今のFF3のキャッチコンテストの1位にはそういう要素があって、2位のコピーにはその要素が全くない。単純に「早かった」だけだし、そういうのは横並びにされたら本来無視されるレベルのもの。


自分を一語で、悪く言えばワンステップで言い表されたら悲し過ぎるし、そんな所にアイデンティティーはない。性格論的に大雑把な類型化はできても、そんなものは詰めが甘過ぎるし、最終的には人類分の一の性格があって、そこから繰り出されるクリエイティビティーもある訳だ。


固有化するということは細分化するということであり、言い換えれば如何に狭くフォーカスするかということであり、そこには言葉が溢れている。例えば「日本に住んでいる」というよりは「日本の大阪に住んでいる」という方が正確だし、言葉数も多くなっている訳だ。


後者も当然完璧ではないけど、前者よりは枠組みが狭いだろう。そうやって狭くしていった方が言葉数は多くなるし、より正確な精度を獲得していく。現実的には番地と表札まで行けばほぼ完璧だけど、そのままでは芸がないから、少ない言葉数に同じ意味を集約(比喩)する訳だ。


芸がないというのはどういうことか。それは「問題を複雑に解決する」ということであり、シンプルさを欠いていけば大抵の問題は一応解決するものの、そういうのは現実的には「穴だらけ」なのだ。例えば携帯性を犠牲にすればiPodの音質はいくらでも上げれるけど、そういう問題ではない訳だ。


僕はロジカルだからこそイロジカルなものの真価を導ける、と考えてるけど、イロジカルなものというのは「論理を終わらせるもの」のことであり、その論理を終わらせるものが論理より先に来るというのは矛盾だろう。だから言葉数が短い比喩、それこそ一語の比喩でもワンステップではできない訳だ。


インスピレーションというと何かワンステップのものと思われがちだけど、全然そうじゃない。ワンステップで導かれるものというのはほとんどの問題を複雑にしか解決しない「初歩的な発想」だ。仮に論理を終わらせるものに最初からアクセスできてもチンプンカンプンだし、何段階かのステップが要る訳だ。


シンプルさに集約する為には問題の本質を先に見極める必要があるし、そういうステップを経て初めて「論理を終わらせるもの」が少しずつ頭角を現してくる訳だ。そしてこの論理を終わらせるもの=比喩的なものがいくつか複合(問題を横断)したものが、最終的にアイディアになる。


そしてそのアイディアの総体が、プロダクトデザインになる。オーディオとかビジュアルとか、精密機械の世界だとこれはすごく想像しやすいんだけど、ゲームとかキャッチコピーとかになるとたちまち曖昧になる。でも、基本的な構造は同じ筈だ。


問題をシンプル化し、その集合で以ってアイディアとし、その総体で以ってプロダクトになる。こう考えると総合芸術寄りの発想かもしれないし、キャッチコピーには当てはまらないかもだけど、本質を見極めた所=論理が終わる所からの直観(比喩へのリンク)を取得するという所だけは、全て共通なんだぜ。