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THINK ABOUT SOMETHING.

非合理合理速度主義

自由意志の証明から明らかなように、虚無は有の前提であり、有を有足らしめるものであり、死とは全くの別概念である。死せる物質は一切の有を生み出さず、しかし生ける物質は虚無を内包する為、創造行為が可能である。


それは死せる物質としては芸術行為として、また生ける物質としては性行為として、それぞれの出力を伴った創造行為が可能である。そして芸術は死せる物質ゆえにそれ自体では有を生まないが、魂を連鎖させる火継ぎの要素があって、それはほとんど性行為に等しいものである。


創造行為が人間行為として最も尊いかどうかは分からないが、有を有足らしめる世界の存続条件がそれである限り、限りなく尊いものであることには疑いの余地がない。即ち虚無の最高峰の作用であり、芸術行為は霊的な連鎖として、性行為は肉的な連鎖として、他の何より譲れないものである。


芸術の定義をどこまで置くかにもよるが、一切の芸術を排した機能主義社会というのは、従って肉的な連鎖しかない。即ち一生の原始時代であり、歴史なき動物社会であり、終末論に結び付かない永遠の流転である。そしてそこから抜け出せた者の他との唯一の差異というのは、「言葉(霊)」に他ならない。


そして言葉の芸術というのは「書物」であり、これが人間性を構成する最大の作用であることには疑いの余地はなく、同時にあらゆる芸術形態のスタンダードであることにも疑いの余地はない。経験主義もバカにできないけど、そういう意味で言葉の芸術の火継ぎに参加しない人は本当のバカになるなとも思う。


僕もそうなんだけど、書物を読まない人の世界というのは、余り物の世界だろう。前線で世界を動かす連中が居て、そこに関与しないどころか彼らに生かされてるに過ぎない、流転の領域。僕は柄谷行人はそんなに好きじゃないけど、この視点でのみ唯一彼を評価できるかもしれない。


だから僕はいつも「本を読まなければ」と思うのだけど、結局全然読まずに今に到るし、読破した本は多分、一桁。それでも執筆する理由は昔に誓った「速度への関与」から来ているもので、直観を必要以上に記述しないスタイルを目指している。


要するにAKIRAの健康優良不良少年じゃないけど、非合理合理速度主義みたいなものを、実践している訳だ。誰かが不完全性を補うことを前提に、完全性を捨てて不正確な記述や言葉足らずの記述も含み込んで、観念でのみ先人の天才達と対等になろうとする、フットワーク至上主義みたいなものだ。


僕にはハイデガーのような超正確な記述はできないし、ドストエフスキーのような言葉過多な記述もできない。でも観念は何かしらあるし、それを最低限のレベルで記述し、連鎖させていけば、綻びはあるにしてもいつかは一流に辿り着けるような気がするのだ。


本来的にはかなりの遠回りな気もするが、自分の性格を前提とした立ち回りとなると、これしかないなと思ってこうしている。これを誓ったのはもう10年近く前だけど、その宣誓がなければ今の自分は先ずないし、思えば遠くへ来たもんだぜ!