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THINK ABOUT SOMETHING.

ゲームの古典

ふと思ったんだけど、自分の世代のゲーマーはDQやFFに対し、ナンバリングを重ねるごとに魔法や召喚魔法の映像がレベルアップしていくのを一つの楽しみにしていたと思う。そしてこれは初代からプレイステーションぐらいまでは、順当に進化していったと思う。


でも映像表現の頭打ちが来て、あるいは映像表現の伸び代が狭くなってきて、必ずしも前作の魔法表現を次作が上回るとは限らなくなった。これは別にナンバリングを楽しむ上での必須事項ではないけど、この楽しさを知っていた世代からすると「それがないのはもったいない!」とも思う。


友達の持論だけど、ゲームは必ず古典より新作の方が面白くなる特殊なメディアだ。例えば書物だと新書が聖書に太刀打ちすることなどできないし、古典は時間が経つごとに古びるどころか逆に輝いていくんだけど、ゲームは古びるごとに本当に古びてしまって、そこが他のメディアとの最大の違い。


要するに「技術進化」が作品に大いに反映させられるメディアであり、僕にとってバハムートの映像進化はゲームメディアの日進月歩を象徴していたと思う。それも一時的な頭打ち(ブレイクスルー待ち)まで来たと思ってるけど、この順当進化と共に歩めた世代はゲームの黄金世代だと思う。


実写と見紛うほどのグラフィックも、MOやMMOなどのオンラインゲームも、今や新鮮さはないし、表現的にも技術的にも一時的な頭打ちに来ていると思う。3Dはホログラムの繋ぎにすらなり得なかったし、次世代機が今出た所でスペックはおそらく予想の範囲内に収まる。


でもこれは完全に悲観的な話でもなくて、この状態が長く続くと開発レベルが横ばいになっていく、というのはあると思う。現実的には少しずつ新しいものは取り入れられていくから、そうはならないけど、今の頭打ちは平面ゲームとしての到達点だと僕は思うから、それ自体を「古典」と一括りにすればいい。


僕は昔「脳内の観念をそのまま現実化できる時代が来れば静止画は真っ先に廃れる芸術だ」と考えてたけど、それはほとんどの場合天才と非天才の差は技術でしかないということを痛感しているからだ。全ての天才に当てはまるとも思えないけど、三浦建太郎とかギーガーの絵がすごいと思った試しがないのだ。


何が言いたいかと言うと、技術的制約の範囲内で立ち回るのもいいけど(僕はツイッターが好きだしね)、その足枷がなくなる時代、製作技術の横ばい時代が来ると、大手(仮に天才とする)とアマチュア(仮に非天才とする)の絶対差はほとんどなくなる、というのが僕の持論だ。


だから古典(現状クラスの平面ゲーム)が将来的にアマチュアの主戦場になる可能性はあると思う。ホログラムとか拡張現実とかと並行する一つの芸術形態として、それ自体がゲームジャンルになり得ると思う。例えば詩を一つ取っても現代詩とか象徴詩とかいろいろあるし、それの最高の一つ足り得る訳だ。


ゲームエンジンの普及次第だと思うけど(あんま知らんけど)、どの道この予想が当たるのは大分先だろうな。アマチュアはマンパワーを稼げないし、あまりにも人数が膨れるとそれはもう会社でしかないからね。でも仮にこのまま横ばいに到った場合、結構な数の大手がボロ(絶対差の幻想)を暴かれる筈。