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THINK ABOUT SOMETHING.

芸術的タテ・ヨコ・ナナメ

企画職の宿命として、経営陣に理解させる為に大きく変化を付けようとするけど、それは王道ではない。むしろオーソドックスな要素で固めて、バリバリ既作品に似ているのに、何故かこっちの方が面白いという方向性の方が絶対に熱いと思う。


でも当然変化の量が小さいと「この作品はAと何が違うの?」と言われ、それに対して紙面(企画書)では答えられないという限界がある。ここに変化に走らなければいけないジレンマがあり、絶対的なものから横に横に拡散しようとする。言うならば「ヨコの変化」だ。


しかし本来的には変化とはタテに働かせるものであり、しかしヨコ並の変化量をタテに働かせるのは先ず無理だ。そんな伸び代があればとっくに先人が飛び付いてるし、しかしヨコに走るのは逃げだし、適度に斜め上を目指すのが理想的な訳だ。


そう考えると変化が大きいこと自体が問題なのではなく、変化の方向性こそが問題なのだ。タテ(伸び代弱)を基軸に置き、それをヨコ(伸び代強)に寝かせていく上での落とし所、伸び代も適度に取れて、王道からも外れない(あるいは強制的に王道化する)、それが独創性のあるべき形だ。


だからゴッドイーターは自分から見ると、モンスターハンターに対するヨコへの逃避にしか見えないし、その企画書は経営陣を理解させやすかっただろうけど、理解させにくい変化の方向性(タテ)に寄っていく方が、本当は熱いのだ。その精神があの作品には欠けてたから、最終的には廃れると思う。


ここで言う理解させにくい作品というのは、仕様的な変化幅が小さいのに実物のデキは全然違う、という作品のことを指す。仕様的な変化幅が大きくて実物のデキも全然違う、という方向性は割と簡単で、例えばヴァンキッシュとかは企画的に通りやすい筈。でも、変化の渋いバイオハザードにはなれない筈。


こう何度も変化と書くと、何かを踏襲するのが当たり前に考えてると思われるかもしれないが、そうではなく、王道には王道になるだけの歴史的根拠があって、その高みを高めるのが本来の文脈だと思うのだ。それと闘う為にヨコに逃げるのが、いわゆる「邪道」なんじゃないだろうか。独創性の悪しき姿だ。


もちろんヨコを目指すことを完全には否定しない。そこから新ジャンルまで行かなくとも、新しいベクトルが見えてくることだってあるからね。でもタテの争奪戦というか、高峰を目指す行為を諦めてそこに駆け込むのは、やっぱり逃げだと思う。


これも理想論だけど、新ジャンルとか新ベクトルというのは、タテを基軸に置き、ヨコに寝かせていく過程でヨコに寝かせ切った方がいいという、目的の転回で生まれるのが一番いい。もちろん事前の閃きで一気にヨコに行けるケースもあるだろうけど、それは割とレアケースだと思う。


コカコーラクラスの発明というのは、この必然性(タテ)から偶然性(ヨコ)への無条件降伏によるものであり、逆に言えば偶然性(ヨコ)から必然性(タテ)への異議申し立てによって生じるものだ。あくまで必然性が基軸になければ最高の偶然性は拾えないという、月並みな持論だけど。


割とシンプルな創作のジャンルだと例外もあるだろうけど、総合芸術で言えば大体この考え方は当てはまる筈。偶然性に直接アクセスするよりも、タテを目指していた筈なのにいつの間にかヨコにフルシフトさせられたような「現場での閃き」によって、それは達成されるべき。


まあこの考え方が全てとは思わないし、例外もいくつか頭に思い浮かぶ。でも取っ掛かりというか拠点みたいなものがなければ、偶然性に溺れるのがオチだし、その取っ掛かりというのは別に既作品ではなく、自分のパーソナリティーに設定することだってできる筈なのだ。


それさえできていれば後はどれだけタテに寄っていけるかを目指すのも、いっそのことヨコにフルシフトするべきだと判断するのも、最早自由だ。この境地で以って初めてヨコの変化は認められるのであって、この未満の境地では否定されて然るべきだと僕は思う。