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芸術的タテ・ヨコ・ナナメ Pt.2

レースゲームの話だけど、仮に最初から最後まで一直線のコースがあるとして、この場合タイムアタックにおける技術介入の余地が全くなく、マリオカートだとキノピオに対してはクッパの常勝だし、クッパ同士だと必ず引き分けになる。


ではどこで技術の差が出るかというと、やはりコーナーだ。言い換えれば変化の起きる場所、あるいは変化を起こす場所だ。直線は直線と同じ角度で真っ直ぐ走ることができた時点で頭打ちだが、曲線はそんなに単純じゃない訳だ。


先日のツイートに繋げるのは少し無理があるけど、直線コースにおける技術介入というのは最前線の領域だと横一線で、要するに皆がクッパで差が皆無だと僕は考える。厳密には理想論だけど、シリーズものの続編を考えればこれは分かりやすい。


直線的な進化というのは「誰もが同じになる部分の進化」とも言い換えられるから、グラフィックの順当進化であるとか、サウンドの順当進化であるとか、そういうのは当然のこと、システム的なやり残しとか、細かい不満点のフィックスとかも含まれ、要は「アップデート全般に関わる要素」のことを指す。


これら全てに共通しているのは「ビジョンが共同化されていて大差がない」ということ。これは「誰もが同じになる部分」の言い換えであり、グラフィックがより綺麗に、サウンドがより豪華に、というのは誰でも無難に想像できる「差の出ない発想エリア」でしかない訳だ。


システムとか不満点の改善もこれに近いものがあるし、こういう直線的な所で勝負を仕掛けるというのは、結構バカバカしいものがある。最終的には飽和するし、パーツとして扱う分にはいいけど、コアとして扱うには土台無理がある。


結局どこで勝負を仕掛けるか、差を引き出せるかと言えば、間違いなくコーナーだ。この曲線的な進化というのは「誰もが同じにならない部分の進化」と言い換えられ、ルールのモデリングであるとか、パラメータのチューニングであるとか、要は「ゲームデザイン全般に関わる要素」のことだ。


直線(タテ)の技術介入余地(伸び代)が狭いのはビジョンが共同化されているからだが、曲線(ヨコ)の技術介入余地(伸び代)が広いのはビジョンが個別化されているからに他ならず、グラフィックやサウンドの順当進化と違って「順当などない」訳だ。しかしその代わりに「自由度」がある訳だ。


飽和する所を目指そうとする、飛んで火に入る夏の虫的現象には、自由度がない。それに対して百人居れば百通りのビジョンが存在するのが、ゲームデザイン=コーナリングだ。もちろんそこには直線の非ではないリスクが孕んでいて、クラッシュすることもあるけど、そこにしか最大の旨みはないとも言える。


先日のツイートに繋げて考えると、厳密にはこうだ。タテに伸びていく、最大化していくのが原則であって、ヨコ自体は目的ではないが、ある程度のヨコの導入=コーナリングを含み込まないと、単なるアップデートで終わってしまう。即ちタテの直接指向は逆説的に、最大化できない仕組みになっている訳だ。


結局バランス主義というか、タテヨコの落とし所を見つけて「斜め上を行け」という話になってくるんだけど、ゲームデザインを停止した(使い回した)シリーズものはコアの部分が錆びてくるし、直線コースでのみ勝負を仕掛けるようになると、それはもうシリーズものの末期症状だ。


何となくイメージが明確化してきたんだけど、多分こんな感じだ。タテの伸び代が狭い理由については大体語ったと思うけど、ヨコの伸び代というのは基本的に無限だ。何かを踏襲するタテと違って「どこにでも行ける」からで、そこには自由度がある訳だ。


タテに引いた直線をヨコに寝かせていった方が、その線の伸び代は伸びていく。完全なタテが最小とすれば、完全なヨコは最大(事実上の無限)という訳だ。しかしタテの高さは「面白さの指標」でもあるから、タテの直接指向(90度)に対して例えば45度の創作は、1.5倍の仕事量を要求される訳だ。


これには異論もあるだろう。ヨコに少しシフトしただけで全く違うゲーム性が生じ、既作品を超えたケースもあるだろうから。でもこれはピアノの理論と同じで、金字塔から離れれば離れるほど綺麗なメロディーは残ってないし、本家をリミックスするか近場で頑張るか、みたいな視点だと考えればいい。


つまりその異論は結果論であって、超えることを目指す過程においては、やはり数倍の仕事量を要する。運良く誰かがそこに直ぐアクセスできたとしても、彼を含んだ業界全体の思考量は、やはり数倍になる。だからこそ誰もがシリーズものの続編に拘って、冒険しなくなるという構図があるんじゃないのかな。


でもここまで書いて気付いたけど、タテ・ヨコ・ナナメのモデル自体が、失敗してるような気がしてきた。先ず真の意味での金字塔があって、それに対する上積みの余地が最も狭いのだとすれば、そこから最も遠く離れた(ヨコに移動した)所の塔は、ほとんど未開拓ゆえにいくらでも上積みすることができる。


でも未開拓の領域は「見放された領域」とも言い換えられるから、上積みの余地は広くても限界値は相当低い。言わば「低い所から始まるゆえの伸び代」でしかない。だから「ヨコに開拓していく」という発想は妥当だけど、そこから始まる伸び代は広いものの高さの限界値はほとんど金字塔を下回る。


でもこれは「真の金字塔」という幻想的なものを前提としているから、現実はそこまで厳密じゃない。ぽっと出が勝つこともあるし、金字塔と思っていたものが虚構と暴かれるケースもあるだろう。暴かれない金字塔、超えられない真の金字塔と言えば、ゼルダぐらいしか思い浮かばないしね。


ヨコを開拓、タテを建築としたこの比喩で行くのなら、デザインというのは0から1の基礎固め、アップデートというのは1から1.1以上の上積みを意味する。基礎固めと言うと少し地味に聞こえるが、何の装飾もされていないコアな原型、と考えればむしろ創作の花形と言える筈。


但しこのモデルにも限界はある。一度0を1にした後はデザインは皆無なのか、と言われるとそうじゃないからだ。要するに、本当はタテの中にもアップデートとデザインがある訳で、高みを一つの未開拓地とした上でデザインを一つ一つこなさないと、そこでアップデートは中断される訳だ。


これはあくまでデザインが先にあって、その上で初めてアップデートの可能性が上積みされる、という創作モデルだ。これを無理矢理タテヨコの話に繋げると、タテのデザインはアップデート不発に終わりやすいが、ヨコのデザインはアップデートの可能性がいくらでも残されていると言えるのではないか。


結論。モンスターハンターに対するゴッドイーターではなく、デビルメイクライに対するゴッドオブウォーのような創作を、僕はやりたい。要するに、脱線せずに同じ土俵で闘って、金字塔としての完全上位を奪い取るピカソのような創作を、僕はやりたい。爆発しやすい所ではなく、むしろ不発しやすい所へ!