御子としての偶然性は記録足り得るか
僕は「万回創世をやり直しても万回造られるもの、為されるもの、同じになるもの」を「必然」と呼ぶ。例えば言葉、恋、神などがそれだ。翻ってそうはならないものを僕は「偶然」と呼び、例えば花言葉、恋人、神話などがそれだ。
一応一つ前のツイートはrootに対するbloomと言った具合に、必然と偶然を紐付けてるんだけど、言葉も恋も神も例外なく、人間工学的に同一ないしはその近似に収束されていくのに対し、そこから生じる花言葉や恋人や神話と言った所産は、千差万別に発散されるようになっている。
夢枕獏が「神を完璧に描いたらば最高の作品になる」みたいなことを言っていたが、それは違う。言葉も恋も神も根底にあるのは人間工学(この言葉遣いは微妙に間違ってるかも)であって、何度やり直しても繰り返される領域に向かう人間の儚さこそ、フォーカスされるべきなのだ。
即ち恋に向かうことによって生じる恋人や、神に向かうことによって生じる神話を描くべきであって、恋自体や神自体を描いても単なる哲学(神かくあり)にしかなり得ないのである。そのような必然に向かう偶然の絶対性こそが「ドラマ」であり、三島が言う所の「フォルム」に他ならない。
「神かくあり」と「我かくあり」は最終的に相通じているが、神と我が同一化するその寸前で聖なる忘我を楽しむのが、僕の昔からのアートの定義だ。言わば偶然性を究極まで殺ぎ落とすオリンピックと同じ原理で、しかし永遠の幻想に向かって揺らぎ続けざるを得ないその実態に「思想」が宿るのである。
即ち思想というのは哲学に対する不可避的な開き直り、神に対する不可抗力の裏切り、そういうものなのかもしれない。もしこの前提が正しくて、且つそこからエロスが横溢するのだとすれば、神に従順であろうとするスピノザのエチカのような著作は、哲学的ではあっても全く芸術的ではないと言える。
夢枕獏が神を描いてもそういうものにしかならない気がするし、言わば「我かくあり」と唱える人間存在が全く見えてこないと思うのだ。エチカは哲学的古典だからまだいいけど、夢枕獏がそこまで行けるかと言うと疑問だし、そこより未満の神の提示なんて、子供のおもちゃにしかならない筈。
僕は上述した必然の集合で構成された作品は傑作になる、と昔は考えてたが、厳密にはこうだ。必然の上位概念は総じて必要だが、その対となる偶然を抱え込まないと、単なる哲学書になってしまう。ゆえに神から全てを俯瞰するのではなく、全てから神に肉迫する際のエロティシズムこそ、何より重要なのだ。