『神』と『我』を繋ぐ言葉
僕達は「神かくあり」に向かって「我かくあり」に到らざるを得ない世界に生きている。そこでその神と我を繋ぐ言葉は「ゆえに」か「しかし」か「そして」なのかを考えてみた。
先ず「神はこうある、ゆえに我はこうある」だと、我まで必然性の延長になるから、システマチックな理想論に終わるだけというか、ドラマチックでもなければエロティックでもないので、従ってこれは先ず違う。
次に「神はこうある、しかし我はこうある」だと、哲学に対する不可避的な開き直り、神に対する不可抗力の裏切りという定義と噛み合うが、その方向性がネガティブな後退のように感じてしまうので、従ってこれも多分違う。
最後に「神はこうある、そして我はこうある」だと、哲学に対する不可避的な開き直り、神に対する不可抗力の裏切りという定義をポジティブに推し進めるというか、神から自由になって進軍する、というイメージなので、これが一番正解に近い。
自分なりに定義すると「ゆえに」が宗教家、「しかし」が現実家、「そして」が芸術家だ。実際は宗教家と言ってもピンキリなんだけど、最後まで必然性と寄り添うその生き方――answer is one――は、オリンピックの選手が記録を塗り替える限りにおいて虚構に過ぎないことを示している。
即ち必然性というのはアンオフィシャルな観念としてあるだけであって、それを公式に引き起こすことなどできないのだ。必然性を公式に引き起こす=記録の歴史が終わるということだから、オフィシャルなものは全て偶然性であって、あるいはそれを「アンオフィシャルな観念の申し子」と言い換えてもいい。
そういう意味でアンオフィシャルな観念に対し「しかし」と続ける者は、聖なる申し子――answer is ones――を宿さない。昇り続けることを中断した諦観論者としての現実的な解があるだけで、それは堕落的な偶然性として世界を濁す。
翻ってアンオフィシャルな観念に対し「そして」と続ける者は、観念に迫り続けることによって生じた申し子、僕的用語で言えば堕胎の王冠を冠った輝ける御子を生み、世界を照らす。「ゆえに」と続ける者のそれは虚構というか、偽物でしかないし、本物の御子は「そして」からでしかあり得ない。
だから僕達は神を目指すことを諦めてはいけないし、神の中に生きた気になってもいけない。神を目指す所にこそ記録は刻まれるし、それは偶然性の永遠性ないしは絶対性であって、万人万別のドラマに化けるものだ。だからこそオリンピックは芸術的なんだし、そこに与する生き方を僕は続けて行くよ。