終末への火継ぎ
「エロスから派生する全ての静的なものが必然」としたけれど、「静的」という言い方を「終末的」とした方が正確かもしれない。
「神」や「愛」はもちろんのこと、「答」や「楽園」なんかもそうで、アンオフィシャルな観念として存在はするものの、例えば答に対する理論、楽園に対する政治という具合に、それを完璧に描こうとする、あるいは目指そうとするプロセスの全てが流動的なのに対し、観念は終末的である。
例えば自転車なんかは割と必然寄りの偶然で、エンジンを持たない人間の移動手段としてはほぼ完成されている。しかしその究極点には達していないし、そもそも一生到達できない訳だけど、この終末の近似であればあるほど必然寄りで、逆に終末から遡れば遡るほど流動的=偶然的なのだ。
例えば「映像を記録する」という命題でVHSが生まれたのだとして、今やDVDやブルーレイが当たり前な訳だけど、この始源寄りのVHSは何にでも置き替わり得たプロトタイプとして、(現時点での)終末寄りのブルーレイは置き替わりを認め得ぬアーキタイプとして、それぞれ偶然と必然の双璧を成す。
そしてその中間層は、中には必然寄りのものはあるにせよ、流動的=偶然的なもので溢れかえっている。必然的なものがあるとすればアーキタイプの前提条件になるものだけで、記録メディアの歴史で言えばDVDが成立する為には光学ピックアップの開発が不可欠だった訳だ。
このアーキタイプを秩序付ける道筋こそが「歴史の芯」であり、その道の根元がプロトタイプであるとは限らない。そしてこの道から離れれば離れるほど、創世を繰り返す際に歴史から漏れやすくなる。要するに「偶然的」であり、その逆に近付けば近付くほど「必然的」と言え、歴史から漏れにくくなる訳だ。
要約するとアンオフィシャルな観念=必然で、そこを目指すプロセスの全てが偶然で、しかしアーキタイプを秩序付ける道筋に近い要素ほど必然「的」で、その逆は偶然「的」ということになる。僕が時々言う「火継ぎ」とはこの道筋を終末へと繋げて行くことを意味するし、シュールやダダはその真逆だ。
終末を目指すことが全てではないけど、人間の最高峰の原理にはなると思うし、そこから外れた文化形態は長続きせず、逆にそこに与する文化形態は歴史化されていく。そういう意味でシュールやダダはいつ歴史から漏れても不思議じゃないくらい、偶然的な存在だと常に思うな。