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THINK ABOUT SOMETHING.

本質は無限だ

精神における終日代謝と基礎代謝の差分からエロスを逆算できないだろうか。基礎代謝とは言い換えれば自動的な代謝のことであり、終日代謝とその代謝との差分が運動的な代謝であると仮定して、それは何らかの終末を見据えたエロスの表象と見ることはできないだろうか。


少し話が飛ぶが、自分の中に何の原理も持たない人間をポンコツと呼ぶとして、それは基礎代謝だけで生きているような人間を意味する訳だけど、そこから突き詰めると、エロスとは原理の別の呼び方――運動的代謝の原点――ということになる。


僕が言う所のエロスの定義はフロイトのそれに近いが、厳密には自分用語で言う所の「虚無」が先ずあって、その「虚無を背に我あり」と唱えるもの、言うなれば自由意志の根源、そういうものである。我を我たらしめる一切の原動力、無意識の淵源にあられる内的唯一者、そういうものである。


ここまで書いて気付いたけど、終日代謝と基礎代謝の差分にエロスがあるんじゃない。この定義で行くと生活的要請であったり金銭的要請であったり、不確定要素が多過ぎるし、他者にとって上述した差分に当たるものが基礎代謝の枠内に収まっている場合、それをその人のエロスと言う訳だ。


厳密には基礎代謝にも二種類あり、純粋な意味での基礎代謝――人類普遍の生理的代謝――が先ずあって、基礎代謝の総和からそれを差し引いた基礎代謝が万人万別の個人的代謝であり、エロスということになる。そしてその領域の中で普遍性と乖離している領域ほど、エロスの中枢を表していると言っていい。


自分以外の全ての他者にとって運動でしかない要素が自動化されている場合、そこからエロスを逆算できる。もの凄く分かりやすく言えば、他者が苦とするものを自分はものともしないという方向に、その人の本質が隠されている。おおかみ子供の雨と雪の母親で言えば、あの無尽蔵な子供への愛情がそれだ。


僕には昔から、何かしら運動的な方向に進まないと人間成長はない、みたいな強迫観念があるけど、つい最近になって自動的なものをどんどん伸ばす、言い換えれば長所を伸ばすのが一番誠実で、運動的なものをどんどんこなす、言い換えれば短所を克服するのは虚勢にしかならないのではないかと感じた訳だ。


例えば僕の性格類型である内向感覚型で名を残しているシャガールとかディズニーとかは、いずれも前者を発展させた方向性だし、反対に後者を発展させた歴史上の人物は、中々見当たらないと思う。そういう意味では三島由紀夫の「自信が先か行為が先か」という議論は、前者でほぼ決着だとは思うな。


原理はアプリオリなもの。そこを変革しようとする運動は総じて上手くいかないし、だから自動化されている自己本質を、究極まで伸ばせばいい。自動化される見込みのない運動は総じて報われないし、従ってエロスを認識する所から僕達の運動が始まるのである。