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THINK ABOUT SOMETHING.

選民思想とクリエイターズ・ハイ

『運動―→理性―→惰性―→習性―→自動』という活動モデルを想定してみたのだけど、この前半を活動領域、後半を天才領域と呼ぶとして、ほとんどの人は「惰性以降習性未満」で散る定めだと思う。要するに、活動的(あるいは鬱的)ではあっても天才的(あるいは躁的)ではない訳だ。


惰性の体験は天才の体験の近似で、それを繰り返している内に理性的なものをスキップすることができる。理性というのは言い換えれば「初動」であり、あらゆる運動において最大負荷がかかるそれをスキップできるという訳で、そして習性以降というのは「精神の中の半永久機関」みたいなものを指す。


少し話が飛ぶが、僕には当然これはツイートしていただろうと思いながらしていなかったツイートがある。と言っても一つの持論に過ぎないのだけど、先ずサッカーで一番強い国と言えば誰もがブラジルと答える。そしてそこに働いてるメカニズムは何かと言うと、突き詰めれば「選民思想」ということになる。


世界最強の国に生まれた自負、あるいは幼少時からのそれの刷り込み、そういったものが全ての少年に宿っているから、個人においても団体においても最高のモチベーションを形造る。簡単に言えば全くの同一人物が日本とブラジルでそれぞれ生まれても、ブラジル選手の方が上手くなるという訳だ。


そこには当然競争率であるとか、生活的要請であるとか、国の事情であるとか、いろいろ絡むんだけど、そういう諸々の外的ファクターを均一化できたとしても、やはりこの仮説は覆らない。では何によってその差異が生じてるかと言うと、その人間の内的ファクターである「選民思想の有無」な訳だ。


格闘ゲームでもこの心理はあって、まだ歴史は浅いけど「発祥の地の意地」みたいなものが、最後の最後の拠り所として確実にあって、そういう一種の選民思想のようなものがウメハラの中にも宿っている筈。だからウメハラが海外に生まれて格闘ゲームに興味を持っても、あそこまで行かなかったと思うのだ。


本題に戻るが、エロスというのは無限性ないしは無償性の別称であり、更にそれを別の言い方に読み換えると半永久機関ということになり、その成立背景には選民思想が必ず存在している。その選民思想だけが初動負荷をものともせず、ほとんど惰性以降の所から活動を――言い換えれば天才を――開始する。


僕はこの選民思想を「外から転がってくるもの」とは思っていない。そういうものも確かにあるが、以前ニートについて語った時のような「啓発」というのも確かにあって、普遍性の淵を描くことで万人を天才に誘う、それが芸術理論の限界だが、これは「啓発のアクティブ化」を意味する。


要するに、初動に鬱々とするもの――理性的なもの――からも傑作は生まれるが、初動を躁的に難なくこなす道の方が傑作への王道だし、この前者を後者に橋渡しするのが選民思想な訳だ。ほとんど習性化する前の段階で散ってしまうのが現実だけど、僕は結構な広範囲で橋渡しはできると信じている。


以前にもつぶやいたように、天才とはテクニカルなものではなく領域的なものだから、理性的に立ち向かうのではなく、惰性の彼方に自然と流れ着くような状態こそ、クリエイターズ・ハイなのだ。僕はその為にも啓発の確率を向上させる、そういう理論を書きながら、人を煽ってるだけのへっぽこなのです。