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THINK ABOUT SOMETHING.

自由意志と霊性

僕は神秘学的な領域にはあまり興味がないというか、キライなんだけど、何となくそういう思考をしてしまったので、ちょっと書いてみようと思う。


昨日『自由意志の証明』を更新し、はてなダイアリーの方にも投稿したが、僕の唯物論のイメージというのは、先ず透明で中空の球体があって、その中に無数の紙切れが置かれており、この天窓から思いっ切り息を吹き込むと、紙切れは暫くの間派手に舞うけど、最後は底面に臥してしまう、そんなイメージ。


だから仮に世界に霊なるものが存在しないのだとすれば、第一種の自由が発生した以降、全ての物なるものはいずれ静寂に臥す宿命で、それが唯物論の帰結に他ならない。しかし世界は今も尚作用しているし、静的なものだけではなく動的なものにも満たされている。


ここで言う静的なものと動的なものというのは、単に無機物と有機物を指す訳ではない。静的なものは無機物で間違いないが、動的なものは有機物の他に『風』や『水』も含まれ、風に関しては観測不能な霊性――証明的に言えば独白者――の住処として最も相応しい。


厳密には『風』より『空間』と言った方が正確で、宇宙が膨張する原理はこの『空間に宿る霊性』の力によるもの。そして物質間の全てに遍在するこの霊性に生命の起源があり、そこから生じた全ての命は風(酸素)を必要とする。ちょっとこじ付けっぽいけど、イメージレベルでは調和が取れている。


純粋な意味での静的なものというのは、例えばそこら中に転がっている『石』だ。これらは外的要因がないと絶対に動かないし、翻って動的なものは自らの内的原理で動くことが可能で、それらは風を通じて、あるいは水を通じて、体内に霊性を吸い込むことによって自らを自由足らしめる。


自由意志というのはそれ自体で運動する力であり、言い換えれば前提条件が何もない初動のことであり、その無限性を風や水に還元するのは如何にも神秘学的なんだけど、これが意外と納得できてしまうのだ。この仮定で行くと風と水が一切ない所に生命はあり得ないし、それは唯物論が唯一成立する墓場だ。


一応スタンスとして断っておくけど、僕は基本的にオカルトは大キライだ。でも自由意志の証明に記したような、聖なる時間差によって見透かされた独白者の存在は否定し切れないし、それはやはり風に宿るエーテル的なものと解釈する方が遥かに自然で、自由とはそれ以外の何ものでもないのである。


物質間に遍在するもの――言い換えれば物質以外の全て――は風と水で、本物の永久機関――無限運行する何ものか――もまた風(気流)と水(水流)に他ならない。そして半永久機関である人間が永久機関との溝を埋めようとする行為がセックスであり、それがインカルナチオ・コンプレックスなのである。