黎明期は万人普遍に存在する
ゲームでも映画でも小説でも、クリエイターたるもの楽しむに留まらず、足りずを想像しろという考えがある。たった一つの要素を追加したり、たった一つの場面を推敲するだけで全体の印象がガラリと変わることはあるし、それをあらゆる作品に実践するべしという考え方だ。
でもこれはジャンル的に黎明期ならともかく、黄金期のそれにはあんまり通用しない。僕はアマチュアならともかく、プロのレベルに明白な差があるという幻想は持ってないし、自分が気付けるならその創作者も気付けていたと考えるから、黄金期の創作に補完できるだけの伸び代はあんまり見つけられない。
だから既存作品から発展系のアイディアを汲み出す、という行為を僕はあんまり信用しない。厳密にはインスパイアという言葉があって、大いに視界が開かれることはあるんだけど、それは発展上位的なタテの創作じゃなく、少しばかり近いヨコ方向での問題解決を示すようなものになると思う。
僕が発想の拠点をどこに置くかと言うと、割と陳腐だけど『自分だけの最高峰』を模索する所に置く。この時頭に過ぎるのは原体験的な『自分だけの傑作』ひいては『自分だけの傑出要素』であり、そういうものを総柄状態にした所がその人間の性癖で、またその人間の創造行為の拠点になる訳だ。
でも総柄状態それ自体は答(最高峰)ではないし、自分の好きな食材や調味料をテーブルに並べてるだけの状態だ。そこからそれらを複合的に活用し、自分だけの答を導き出すのが僕が考える所の創作であり、その時にあらゆるヨコからのインスパイアが、燻し銀的に、じわじわと効いてくる。
『自分だけの最高峰』という問題提起そのものがオリジナルだから、究極的には、何かの発展上位にその答はない。要するに本当の創作は既製品からは始まらないし、もっと根本的に解体した所からオーダーメイドする必要がある。ハンバーグにチーズを乗せました、みたいな創作では話にならない訳だ。
だから食材や調味料のレベルまで解体した所からじゃないと、決して自分の最高峰は見つけられないし、そういう『拠点を既製品に置かない創作』は一種の黎明期だから、『足りずの想像』がいくらでも利く。それが自分の性癖から始まっているとなると、尚更のことだ。
そしてその時に大体のアタリを付けてヨコからのインスパイアを狙い撃ちすることはできる。例えばゲーム制作の為に創作料理店に行っても仕方ないし、その逆も然りで、ある程度の近似は狙わなきゃいけない。だから自分が根底にあって、その黎明期に光を与えるものが既製品、という考えの方が夢があるよ。